“東洋のキュビズム” 速水 御舟 作『名樹 散椿』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 名樹 散椿
- 画家 速水 御舟(1894年~1935年)
- 制作時期 1929年(昭和4年)ごろ
御舟について
概要
速水 御舟(はやみ ぎょしゅう)は大正~昭和にかけて活躍した日本画家です。
琳派に代表される、日本古来の作品たちを模写しながら日本画を学ぶ一方で、それまでのものにはない革新性を模索し続けました。
やがてその試みは完成に至り、『名樹散椿図』は昭和美術初の重要文化財に指定されます。
しかし、兄弟子の今村 柴紅同様に、病気で夭折してしまいました。
生涯
作品背景
作品のモデルとなったのは、京都 地蔵院の椿です。
地蔵院は約1300年前に建立された寺院であり、時の天皇だった聖武天皇が行基に請願して作られました。
室町時代の明徳の乱で焼失の憂き目に会いましたが、足利義満が金閣寺を建立した際に、余った建材で再建したそうです。
また、その時に義満が奉納した地蔵菩薩が本尊として奉られるようになります。
建立当時の地蔵院は八宗兼学の寺でした。
八宗兼学とは日本仏教における八大宗派、即ち天台宗 / 真言宗 / 浄土宗 / 浄土真宗 / 臨済宗 / 曹洞宗 / 日蓮宗 / 時宗を遍く学ぶことです。
これらの宗派のうちの多くは延暦寺にて学んだ僧によって開かれたものですが、教義が異なっているため、それぞれに学ぶ意義があるのですね。
しかし江戸時代には浄土宗の寺院、つまり知恩院の末寺となりました。
境内にはかつて五色の八重椿があり、これにより地蔵院は“椿寺”の愛称で親しまれていました。
椿は安土桃山時代の文禄の役において、加藤清正が朝鮮の蔚山(ウルサン)から持ち帰られたもので、これを大変気に入った豊臣秀吉が地蔵院に納めたそうです。
一本の木に濃淡様々な花を咲かせる椿は大変美しく、豊臣秀吉をして「散り様まで美しい」と言わしめたそうです。
残念ながらその椿は枯れてしまいましたが、現在は(おそらく挿し木で生まれたと思われる)その子供の椿がきれいな花を咲かせています。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
速水 御舟 作『名樹 散椿』です。
一つの木に咲いた様々な色合いの椿と、それが散る様子が画かれた屏風ですね。日本画の持つ写実性を踏襲しながらも、西洋的な色彩が見受けられます。
特に幹などからは、もはや絵画(painting)に近い様相すら感じました。
本来、屏風絵の背景には金泥や金箔が用いられます。
琳派の流れを汲む文化かもしれませんが、これにより背景と主題が視覚的に差別化され、作品にメリハリが生まれるのですね。
しかし御舟はこれにも一石を投じ、背景色に金の粉を撒く“撒きつぶし”を用いました。
これでは背景から光沢が失われ、淡く光を宿す程度になってしまいますが、その反面、幻想的な世界に主題の椿を溶け込ませることができます。
咲き誇るか散様か、現世なのか幽世か
この作品には様々な鑑賞角度が存在します。
生命力を感じつつもどこか浮世離れしているこの風景は、散椿を見てトリップした御舟が感じた光景だったのかもしれませんね。
『炎舞』とともに、国の重要文化財に指定されたこの作品は、東京都の山種美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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