“もう一つの星月夜” ゴッホ 作 『ローヌ川の星月夜』を鑑賞する

印象派

作品概要

  • 作品名 ローヌ川の星月夜
  • 画家 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年~1890年)
  • 制作時期 1888年

ゴッホについて

概要

フィンセント・ファン・ゴッホは19世紀オランダの印象派画家です。

ジャポニスムに影響を受けた画家の一人であり、印象派を語る上では外せない画家ですね。

彼の短い生涯は苦難に満ちており、作品の多くはゴッホが字雑するまでの療養中に描かれたものが多いです。

そして彼の活動や作品は後に続くフォービズム(野獣派)などに多大な影響を与えました。

 

絵画を描くことで自分を保っていたゴッホは、周囲との関係に苦しみつつも芸術を追求し続けます。

また初期の画風はバルビゾン派であったものの、浮世画との出会いや人間関係の変化から、次第に印象派へと転じます。

生涯

ゴッホは1853年にオランダの北ブラバントに6人兄弟の長男として生まれます。

父は聖職者であり、この影響もあってゴッホもまた聖職者を志す時期がありました。

 

ゴッホは生来不安定な気質だったようで、生涯、彼に理解があったのは弟のテオドルスだけだったようでした。

画商として

絵画の勉強は特別行っていたわけではありませんが、11歳の時に父にプレゼントした絵にはすでに才能の片鱗が見えていたそうです。

しかし画家になるのはまだ先で、16歳の時に叔父の紹介で画商グーピル商会の支店員となりました。

ここで働いた期間は4年とあまり長くありませんでしたが、ここでゴッホはレンブラントフェルメールといったオランダの至宝的作品に触れ、絵画の魅力に触れるようになります。

かわりに職場での人間関係はあまりよくなく、テオドルスとの手紙のやり取りが心の支えだったそうです。

転勤

20歳の時、職場での関係や生活の乱れが目立ち始めたゴッホは、まずイギリスのロンドンへの転勤命令を受けます。

ここでゴッホは下宿先の娘に恋をしましたが実ることはありませんでした。

失意の中で彼は宗教に心を預けるようになります。

 

そしてその2年後にはフランスのパリへ転勤します。

この時代のパリは普仏戦争やパリ・コミューンなどの騒乱がようやく落ち着いたころであり、黄金時代『ベル・エポック』へと向かう過渡期にいました。

まさしく“花の都”と呼ぶにふさわしい絢爛さを持ち始めていたでしょうが、ゴッホの心は相変わらず晴れません。

職場での人間関係は依然として良くはなく、ゴッホもまたグーピル商会の商業主義に辟易していました。

1976年(23歳のとき)にゴッホはグーピル商会を解雇されます。

転職

その後、ゴッホはイギリスで教師となり少年たちに算数や外国語を教えるようになります。

ここで彼は貧しい人たちのために伝道師(キリスト教の教えを説く者)になりたいと考えるようになりました。

当時、聖職者になるには難関である神学部へ入学せねばならず、勉強という大きな挫折を味わったゴッホは自らの弱さを戒めるために自虐的な行為に及ぶようになります。

父からも勉強の遅れを指摘され、ついにゴッホは神学部を諦めます。

 

がしかし、ベルギーの伝道師学校に通い近隣の村で伝道を行ったりと、がむしゃらに生きるうちについに伝道師の免許と俸給を得ることに成功します。

ゴッホは精力的に活動します。

主に炭鉱夫たちとともに日々を過ごし、伝道を行いながら病人の看病などに尽力しました。

ただしこの頃のゴッホの風体はあまりにもみすぼらしく、伝道師としての威厳にさえ関わるとしてゴッホは間もなく免許を取り消されました。

画家へ

夢を断たれたゴッホはズタボロの精神を抱えたまま再び鉛筆と筆を握りました。

この頃のゴッホの経済的な支えは父と弟からの仕送りだけです。

特に弟テオドルスは兄の才能を信じ、時に怒りつつも生涯彼を支えたそうです。

 

27歳の時に思い立ったゴッホはベルギーのブリュッセルに向かい、短期間ではありますが王立アカデミーで素描を学びます。

また、29歳の時にはオランダのハーグに移り、師を得て制作に尽力するようになります。

はじめは人物画を中心に制作していましたが、モデルを雇う費用に困窮し始めたので街並みを中心に風景画に傾倒しました。

なお、この頃までは主に水彩画を描いていましたが、時代のニーズを読んだテオドルスの忠告から油絵へと切り替わるようになります。

バルビゾン派と印象派の間で

ゴッホの苦悩は続きます。

父の転勤に伴いオランダ内の別の村に引っ越した彼は、そこで働く機織り職人たちを描きました。

しかしゴッホの描く絵画は暗い印象を与えるものが多く、弟のテオからしきりに印象派(印象派は明るい色調のものが多い)を勧められます。

生来、人とのかかわりが苦手で、かつ精神的に病んでいたゴッホには心から印象派を描くことは不可能に近かったのでしょう。

 

しかし引っ越しの2年後に訪れた国立博物館で、レンブラントを始めとしたオランダの巨匠の作品を見たときから、少しずつ彼の中に変化が起こるようになります。

この体験からゴッホは、絵とは感情の昂ぶりのまま書き上げるものであるという結論を得ました。

些細なきっかけかもしれませんが芸術家、それどころか印象派の画家には必須の性質なのではないでしょうか。

浮世絵との出会い

30代のころにゴッホはゴンクールの小説から浮世絵の存在を知ります。

今にしてみればこの瞬間が彼の人生の転換点だったでしょうね。

当時、日本ではポスター程度の価値でしかなかった浮世絵が、ジャポニスムの普及したヨーロッパでは高価な絵画になりつつありました。

それでもゴッホは足繫く美術商に通い、浮世絵を購入しては自宅に飾り恍惚のまなざしで見つめていました。

 

またこのころはパリで弟と同居しつつ、多くの新進気鋭の画家仲間と語り合っていたそうです。

その交流の場となった画材屋の店主であるタンギーを、後にゴッホは肖像画にしています。

アルルでの制作活動

35歳になると最も親交のあったゴーギャンとともにアルルで共同生活を送るようになります。

パリは芸術に限らずあらゆる最先端が集う都であったのに対し、アルルはのどかな田舎でした。

ここはゴッホにとって精神的にも適した場所だったのでしょう。“赤い葡萄畑”をはじめとした印象派絵画が制作されました。

 

しかし彼の精神は常に過渡的な変化を続けます。

同年の12月にゴッホは自らの耳を切り落とし、病院に運び込まれました。

療養生活

知らせを聞いた弟テオドルスはすぐさまアルルの病院へ向かいました。

幸い主治医の治療により、感染症を含む生死に関わる問題は回避されましたが、自傷衝動は収まらずゴッホは監禁されます。

年が明けるころには多少容体が落ち着きましたが、ゴッホは既に重度の統合失調状態にありました。

 

しかしゴッホの精神状態に反比例するように、彼の作品は成熟していきます。

このころゴッホのアトリエ(通称 黄色い家)に赴いたある画家はパリ時代の作品からの進化に驚いたそうです。

 

春が終わるころにゴッホはアルルから数十km離れた村の修道院に転院します。

病室の一画を制作スペースとして許可されたゴッホは、すがるようにキャンバスに向かいました。

この頃は人物ではなく、植物や動物を始めとした自然物に美を感じるようになります。

そしてここで“星月夜”を描きました。

闘病

ゴッホはサン=レミの修道院で闘病を続けます。

星月夜を描いたころはよくなっていましたが、時折来る発作が彼を苦しませ続けました。

しかしその中においても制作を続け、“花咲くアーモンドの木の枝”を弟テオドルスに(正確には生まれたばかりの彼の息子に)贈りました。

 

この頃からは一般にもゴッホの作品が評価され始め、“赤い葡萄畑”などは現在の価値にして約80万円で売れました。

37歳の年に、多少復調したゴッホはオーヴェル=シュル=オワーズに引っ越しました。

退院

オーヴェル=シュル=オワーズはパリの近郊にありながら、都会の喧騒を離れた場所です。

ゴッホにとっては落ち着き、かつ兄弟が近い距離にいることのできる場所でした。

前述した通りゴッホは少しづつ画業で生計を立てられるようになっており、無理をしない程度に制作活動を続けます。

 

そのころ弟テオドルスは仕事や家庭でトラブルを抱えていました。

テオドルスはゴッホの絵が全く売れず精神的に荒れていた頃も献身的に彼を支え続けた人物です。

もはや親友とさえいえるテオドルスの憂鬱を、兄もまた気に病んでいたようですね。

別れ

1890年7月 テオドルスのもとに手紙が届きます。そこには兄が銃で自らを打ち抜いた旨が記されていました。

急いで駆け付けたテオドルスが見たものは、生死の境をさまよっていた兄フィンセントでした。

銃弾は彼の心臓を打ち抜いており、途切れそうになる意識の中でフィンセントは安らかな死を願います。

 

残酷にもその願いは叶い、フィンセント・ファン・ゴッホは最愛の弟のもとでその命を閉じました。

尚、その半年後に弟テオドルスもまた兄を追うように亡くなったそうです。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

フィンセント・ファン・ゴッホ作『ローヌ川の星月夜』です。

 

これはサン=レミで星月夜が描かれる前年に描かれた、もう一つの星月夜です。

1889年にサン=レミで描かれた方は、彼の精神性や芸術への哲学を反映した象徴的作品であると言え、もはやモダンアートすら先駆していました。

反面、こちらの作品には、まだいくぶんの写実への重きを感じます。

 

この作品はアルル時代に描かれたものですが、ローヌ川はスイスからフランスを経て地中海へ注ぐ川ですね。

そのほとりで腕を組み合う紳士淑女の背景には、まばゆく輝く星空と町の光を反射して輝く水面があります。

 

注目すべきは絵の具の塗り方でしょう。

一つ一つ、花弁のように塗りたくられた青には、一つとして同じ色がありません

まるでモザイク画のような表現方法は、ゴッホがこの風景を多くの要素の集合としてとらえていたことを示しています。

 

星々もまた光を花びらのように伸ばしていますが、これも当時の芸術界ではありえない表現方法でしたでしょう。

おそらくは子供の遊びなどと揶揄されていたのではないでしょうか。

しかしこの表現により、現実世界では無機質な星たちが、夜を引き立てる妖精のような存在へと変貌しました。

 

また、空は絵の中心に向かう程に明るさを増しており、町の光が川面を舐めて手前へ広がっています。

即ち、この作品に登場するすべての要素は手前の2人を祝福しているのです。

その為でしょうか、2人は微笑んでいるように思えますね。

 

青を主体として、これほどまでに幸福感に満ちた作品が他にあるのでしょうか。

MoMA所蔵の大作に隠れていますが、間違いなくこの作品もゴッホが描いた夜景の名作と言えるでしょう。

 

こちらの作品はオランダのオルセー美術館に所蔵されています。(外部リンクに接続します。)

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