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“信仰と忠義の狭間を画く” 月岡 芳年 『大樹寺御難戦之図』を鑑賞する

浮世絵

作品概要

  • 作品名 大樹寺御難戦之図
  • 画家 月岡 芳年(1839年~1892年)
  • 制作時期 明治6年

芳年について

概要

月岡 芳年(つきおか よしとし)は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・日本画家です。

ジャンルを問わず数多くの作品を残した画家であり、また多くの画家を育てた日本画壇の功労者です。

しかしながら彼の描く作品の多くは残酷かつ無慈悲なものであり、一般大衆に忌避されることもありました(通称 血まみれ芳年)。

現代では再評価され川瀬 巴水同様、浮世絵復興の礎とされています。

生涯

作品背景

今回紹介するのは、三河の一向一揆を画いた作品です。

 

戦国〜江戸時代における内戦や紛争を一般的に“一揆”と呼びますが、中でも寺社やその門徒が争いの中心にいるもの“一向一揆”と呼びます。

当時の三河には浄土真宗の本願寺派という大きな仏教派閥がいましたが、派閥の勢力拡大に逆比例し、自分達の威厳や影響力が減退していく状況を、当地の戦国大名は懸念していました。

その領主の名は松平元康、なんとのちに江戸幕府を開く徳川家康その人です。

 

時は戦国時代の真っ只中

すでに桶狭間の戦いから5年以上が過ぎており、尾張を統一した織田信長は、『天下布武』のキーワードのもと一大勢力を築きつつありました。

また、斎藤道三武田信玄といった有力大名も牙を磨き続けている状況で、弱小国の領主であった家康は常に気を揉み続けていたでしょうね。

(ちなみ三河が弱小国のせいか、家康は幼少期に武田家へ人質として幽閉されていたそうです。)

 

大国に挟まれた三河の国において、せめて国内の平定・平穏を目指そうとしていた家康が突き当たった問題がこの一揆です。

当時、有力な自社には守護使不入の特権が与えられており、三河の本願寺派の寺も絶対的強固な権利を有していました。

(やや時代をさかのぼると、荘園や僧兵までもが与えられていたため、当時の寺社とは現代のそれらとは異なる独立機関のような存在だったのでしょう。)

 

しかしながら家康は国内にのさばり、利権を拡大していく浄土真宗一派を野放しにしておくことはできませんでした。

ここから一揆に至るまでのいきさつには諸説ありますが、

家康が上宮寺(現在の愛知県岡崎市にあります。)の近くに砦を築き、上宮寺の兵糧を奪ってしまったそうです。

家康としては尾張(織田氏)や甲斐(武田氏)との戦に備えてのことかもしれませんが、上宮寺は当然これに怒り、不入の特権を侵害されたとして異議を申し立てました。

それまでの松平氏との対立もあってかこの火種はたちまち広がり、近隣の浄土真宗門徒をも触発したそうです。

また、本願寺派の勢力増大に不満を持っていた他宗派の仏教徒が家康側につくなどしたため、争いは瞬く間に一向一揆へと昇華し、岡崎市を中心に大規模な戦となりました。

一揆は半年にわたり続きましたが、最終的には家康側が優勢になり、和議に持ち込んで一揆は平定されました。

 

 

さてこの一向一揆ですが、最大の被害者は家康の家臣であると私は考えます。

というのも、家臣たちの中にも浄土真宗の門徒がいたからです。

 

昔の日本は、近所や親戚、家庭内のつながりが非常に強い、極小の閉鎖的なコミュニティ社会が形成されていました。

(インターネットや電話が存在しないため、それも無理からぬ話でしょうね。)

コミュニティの調和を乱す行いは、集団全体の不利益となり、最悪の場合は家単位での村八分にまで発展します。

そのため、家臣たちも、主君のためとはいえ安易に味方をすることができませんでした。

有力家臣の例としては、酒井忠尚や渡辺守綱などが一向一揆側についたと言われています。

一揆の平定後は家康の恩情により家臣に返り咲きましたが、酒井忠尚ら一部の武将は離反したそうです。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

月岡 芳年作『大樹寺御難戦之図』です。

 

その名の通り、大樹寺での一向一揆の場面を画いた作品ですね。この作品は三河後風土記に収録されています。

右手で白馬に乗り指揮を執っている武将が、大将の家康です。

その下で槍を構えているのは、徳川四天王に数えられた本多忠勝であり、つまりはその手にしているのが『天下三名槍 蜻蛉切(とんぼきり)』です。

その他、渡辺守綱を始めとしたそうそうたる面子が顔を揃えており、壮絶な合戦の瞬間を見事に切り取っていますね。

 

芳年がこの作品を画いたのは30歳ごろですので、画家として技術や知識が板についてきたノリノリな時期でしょう。

登場人物の表情は見事にかき分けられており、相手に対する怒りや哀れみがそれぞれににじみ出ています。

『勝てば官軍』

という文句が幕末の戊辰戦争でよく叫ばれました。

戦を行う両者は、それぞれに信じる正義があり、どちらが正しいのかを客観的に裁定することはできません。

家康を始め、この一向一揆に参加した武将たちは、もしかしたらそのような迷いがある中で刀を振り下ろしたかもしれませんね。

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