“天下道具” 狩野 永徳作『上杉本洛中洛外図屏風』を鑑賞する

日本画

作品概要

  • 作品名 上杉本洛中洛外図屏風(うえすぎほんらくちゅうらくがいずびょうぶ)
  • 画家 狩野 永徳(かのう えいとく) 1543年~1590年
  • 制作時期 1565年ごろ(室町時代末期)

永徳について

概要

狩野 永徳は安土桃山時代に活躍した日本画家です。

大画派 狩野派を代表する絵師であり、織田信長や豊臣秀吉、果ては天皇家のためにもその筆を執りました。

既に焼失した作品もありますが、狩野永徳は時代の最前線にいた絵師と言えます。

作品たちの多くは、屏風や障壁画として時代を彩りました。

生涯

制作背景

本作品は(あくまで説の一つですが)織田信長が上杉謙信に贈るために完成させたものと伝えられています。

正確には時の将軍 足利義輝(室町幕府13代目征夷大将軍)が上杉謙信のために制作を命じていた作品が、義輝の死により中断され、それを信長が肩代わり依頼したものと言われています。

 

※ 上杉謙信はその姓を長尾・上杉と、名を虎千代・景虎・政虎・輝虎・謙信と変遷させておりますが、本項では読み易さを考慮して”上杉 謙信”に統一させていただきます。

当時、足利義輝の下では上杉謙信を室町幕府の最高家臣(管領)とする計画が進行していました。

上杉謙信は言わずもがな『越後の虎』と呼ばれた北陸の大武将。若干19歳で家督を継承すると、その1年後には将軍 足利義輝から越後の守護としての任を命ぜられ国主となった大名です。

その力・影響力は甚だしく、近隣の有力大名である武田・今川・織田を始めとしたそうそうたる面子が常に彼の動向に注視していたそうです。まさに戦国時代の中心人物。全方位に牽制の効くキーパーソンですね。

故に、権勢と影響力の低下が著しかった室町幕府が、彼を取得せんとすることは必定と言えたでしょう。

 

そんな、上杉謙信を得るための大きな対価の一つがこの洛中洛外図屏風でした。足利義輝は当時の都で最も腕の良いとされていた狩野派を呼び出し、この屏風の制作を依頼します。

洛中とは京の街中、洛外とはその周りを示しており、これらを一つの図中に収めることは即ち、この国の中心を手中に収めることと同義です。将軍としては「自分の収めるこの国を半分、分け与えよう」という意図を込めたかもしれませんね。

しかし夢半ば、謙信の管領就任を願った将軍 足利義輝は永禄の変によって非業の死を遂げます。時は永禄8年5月(1565年)。皮肉にも、洛中洛外図屏風完成の僅か数か月前の出来事だったのです。

その後、送り先のなくなったこの屏風は狩野永徳が保管するのですが、その期間はなんと8~9年と考えられています。永徳は一時、この絵が二度と日の目を浴びることは無いだろうと考えたのかもしれません。

 

しかしながらその後台頭した次なる天下人、織田信長によってこの作品の真価は再発見されました。彼はこの屏風を、越後の虎である上杉謙信への交渉材料にしようとたくらんだのです。奇しくも、夢半ばで没した足利義輝と同じ目的で洛中洛外図屏風を欲したのですね。義輝亡き後の、上洛をかけた各大名の勢力争いは目眩き変遷を遂げ、大勢の逆転、大武将の急逝が日常茶飯事でした。戦火にまみれた時代の最前線を駆ける織田信長とその軍も例に漏れず、故に覇者となるために上杉謙信を手中に収めようとしたことは当然の帰結でしょう。

かつての征夷大将軍が制作を命じた、京の都そのものとも言える絢爛豪華な屏風を、天下に最も近い織田信長が送る。信長自身にとって、謙信がこれ以上ない賓客であったことは言うまでもありません。

鑑賞

左隻の大きいサイズはこちら 右隻の大きいサイズはこちら

あらためて作品を見てみましょう。

狩野 永徳作『上杉本 洛中洛外図屏風』です。

前述の通り、京の内外を鳥瞰図にて六曲一双の屏風に画き込めた狩野永徳渾身の一作ですね。

 

右隻は京の西側を画いたもので、鴨川や祇園神社(現 八坂神社)といった町人中心の街中が画かれています。現在にも継承されている祇園祭の山鉾が、画面中央を練り歩いていますね。

一方の左隻は京の東側を画いており、天皇の住まう御所や、天神信仰の中心である北野天満宮、武家屋敷といった格式高い風景を集約しています。

京都の町は当時の日本の中心。江戸時代で言うところの江戸。現代で言うところの東京と同義である、国の全てを凝縮した中枢都市でした。そこには行政の長である将軍はもちろん、天皇家やこれを取り巻く貴族たち、寺社の僧侶やその門徒、さらには多くの町人がいました。京の都は平安の国風文化から続く雅な文化に加え、町人・商人たちの活気や経済的勃興によって世界的な都市へ発展したわけです。

図中には町中を埋め尽くすように多くの人間が描写されていますが、所狭しと画かれた彼らもまた、この都の権勢と繁栄を物語るピースの一つでしょう。

 

また屏風は京の町を空から見下ろす鳥瞰の構図になっておりますが、この鳥が見下ろした都は黄金の雲に垣間見えた賑やか、且つ重厚な威厳に満ちていました。永徳は京の空に広がる雲と、町を縦横に走る通りの全てを金色で表現しています。まるで日の光がこの都を遍く照らし尽くすかのような大胆な表現方法。天下人に捧げるための豪胆な発想ですよね。

 

洛中洛外図は狩野永徳のほか、数多くの絵師によって制作されたテーマですが、それには当時の文化や建造物、さらには四季の風物詩などを画くという暗黙のルール・様式がありました。

これは1年を通じた京の都とその風情を図中に表現するために編み出された工夫であり、現代において当時の生活様式や文化を研究するための貴重なアイテムとなっています。

 

現在この作品は国宝に指定されており、

この米沢市上杉博物館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)

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