“大正の美人画” 竹久 夢二 作『立田姫』を鑑賞する

日本画

作品概要

  • 作品名 立田姫
  • 画家 竹久 夢二(1884年~1934年)
  • 制作時期 1931年ごろ

夢二について

概要

竹久 夢二は明治・大正・昭和を跨り活躍した日本画家かつ詩人です。

画においては美人画をメインに活動し、その独特な風情や情景は『夢二式美人』と呼ばれました。

また画家・詩人としての活動の傍ら、着物や日用品などのデザインも手掛けていたようで、その手広い創作意欲は“デザイナー”とすら呼べるものでした。

生涯

芸術との出会い

竹久 夢二は明治17年に岡山県で生まれました。

生家は歴史ある酒造であり、兄が早世した竹久家で夢二は大切に育てられます。

 

明治・大正は日本画に限らず多くの文化が変革を続けた激動の時代でした。

日本に初めてのビール醸造所ができたのは明治元年で、同じ頃にワインやウイスキーも文明開化により盛んに流通しています。

夢二の父親は日本酒造に見切りをつけ、福岡の八幡製鉄所で働き始めました。のちに夢二自身もここで働き始めます。

しかし胸に何かしらの想いがあったのか、18歳の時に家出し、東京の早稲田実業学校(現 早稲田実業高校)に入学しました。

現在知られている夢二の画家的足跡が最初に現れるのはこの頃で、当時は読売新聞にスケッチなどを投稿していたそうです。

非戦論者たち

学生時代は夢二にとって非常に刺激的な期間でした。

彼はここで社会主義者の荒村 寒村と出会い、その紹介で彼らの機関紙の挿絵を画くようになります。

その他にも多くの社会主義者たちと親睦を深め、自身の思想も非戦論や共産・社会主義に傾倒し始めました。

早稲田実業学校を中退後も彼らとの交流が続いたかは明らかになっていませんが、26歳の時には幸徳事件(明治天皇の暗殺未遂)への関与で短期間の拘束を受けています。

恋多き人生

『夢二式美人画』の原点、やはりそれは画家の私生活に深く絡みついた女性たちにありましょう。

竹久 夢二はその人生において実に多くの女性と交流をしましたが、中でも深い関係にあった3人がいました。

 

まず筆頭は金沢出身の“たまき”でしょう。彼女は竹久夢二の生涯における、ただ一人の妻でもあります。

たまきは夫と死別したシングルマザーでしたが、自身が営む絵葉書屋に客として訪れた夢二に見初められました。

夢二は絵葉書屋に足繁く通い、やがて二人は結ばれます。

しかしながら不安定な夢二は幾度となく妻と離縁・再縁を繰り返しました。

彼の奔放さ、画家と言う精神的職業を鑑みれば無理からぬ話かもしれませんが、たまきは献身的な妻であったようなので非常に不憫に思います。

それでもたまきは、終生彼を慕い続けたそうです。

 

美術学生の“彦乃”夢二が最も愛した女性です。

彼女は夢二の大ファンであり、教えを請うために接点を持ち、夢二がたまきと距離を置くと同棲するようになります。

恋仲でありながら師弟という複雑な関係でしたが、夢二もまた彦乃を寵愛しました。

しかし夢二が34歳、彦乃が22歳の時に彼女は結核を発症します。この年はスペイン風邪(インフルエンザ)の世界的流行とともに、結核の発症者が爆発的に増えた年でした。

不治の病と言われた難病に彦乃の生命力はなす術を持たず、2年後に24年の生涯を閉じます。

彼女を失った夢二は失意の底に追いやられ、儚くも幸せだった日々を弔うように『彦乃日記』を残しました。

 

そして、絵のモデルとしての美貌でも有名だった“お葉”がいます。

お葉は十代後半の美しい時代を、画家たちのモデルとして過ごしました。

整った顔立ちながらも、気立てよく柔和な物腰の秋田美人だったお葉は、当時の日本において理想的な女性と言えるでしょう。

彼女は、菊富士ホテルに滞在していた夢二のモデルを務めるうちに恋仲に落ち、やがて同棲します。

ですが夢二40歳、お葉20歳の折に、授かった子供を幼くして亡くしてしまいました。

悲しみに暮れたお葉は自殺未遂を図り、さらに半年後に関係を断ちます。

画家としての評価

竹久 夢二は、終生において中央画壇に身を置かなかった画家でした。

もちろんそこへの憧れはあったでしょう。しかし、彼の画く日本画は近代日本画の本流からは遠く離れたものであり、画壇として到底受け入れられないものだったのです。

 

しかしながら、明治末期~大正期の日本画は様々な技法・様式・哲学が交差した過渡期であり、夢二もまた新時代の美術の在り方を模索していました。

そしてたどり着いた1つの答え、

夢二は芸術を“生活に根付くもの、日常と絡み合うもの”と考えました。

即ち、芸術を独立した崇高なものから、産業や商業と関係しあう実用的なものに変容させようと思い立ったのです。

それにより彼の作品は日本画の固定概念から離れ、自由な枝葉を伸ばし始めるようになります。

 

この試みは当然画壇からの顰蹙を買いますが、反対に大衆人気を獲得したようです。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

竹久 夢二 作『立田姫』です。

 

燃えるような衣を纏い、黄金色の髪飾りを施した女性が画かれていますね。

立田姫(竜田姫)は日本神話に登場する秋の女神ですが、古事記や日本書紀には登場しない秘神です。

一説によると立田姫は、竜田山の神霊だったものが神格を得て成ったものとされています。

神格の性質は“秋”

竜田山と言えば、古今和歌集に収められた「ちはやぶる~」の歌でも有名ですね。

 

真っ白なうなじから視線を落としますと、対照的に鮮やかな着物が目に映ります。

その輪郭線はやや粗く、背景も色があせたかのように薄い

一見するとなんともみすぼらしい画ですが、しかして確かに宿る美しさも感じます。

 

立田姫は豊穣の神であり、つまりは農民の守護神ですので、彼らの考える飾り気のない美しさを体現していると言えましょう。

折れてしまいそうなほど細く儚い姿、

夢二は日本人の美意識の根底にある、慎ましくも強い美を顕現させていました。

 

この作品は岡山県の夢二郷土美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)

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