“近代日本画の父” 虎編 狩野 芳崖作『悲母観音』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 悲母観音
- 画家 狩野 芳崖(1828年~1888年)
- 制作時期 1888年(明治21年)
芳崖について
概要
狩野 芳崖(かのう ほうがい)は江戸時代末期から目地時代初期にかけて活躍した日本画家です。
その名の通り狩野派の画師であり、かつ狩野派最後の画師となりました。
文明開化により衰退しかけた日本画を橋本 雅邦とともに再興させた”近代日本画の父”であり、早世ながら東京藝術学校の創設にも尽力した偉人です。
生涯
最後の狩野派
狩野 芳崖は1828年(文政11年)に長府藩の御用画師の家に生まれました。
彼の家系は桃山時代に端を発する狩野派の分家であり、芳崖は8代目に当たります。
画師としての才能は早くから開花しており、現在では少年時代の作品が10点程度残っているそうです。
19歳の頃に狩野派 勝川院のもとで本格的に修行するとともに、ここで生涯の友となる橋本 雅邦と出会いました。
互いに切磋琢磨しあう2人の天才を、周りは“勝川院の竜虎”と呼んだそうです。
独立
20代半ばに差し掛かる頃には長府藩から御用絵師として取り立てられ、武人画や地図を制作しました。
しかし明治維新後に藩が無くなると生活は一変し、家族を食わすために不本意な仕事を引き受けます(南画や豪農の襖絵など)。
そして見かねた雅邦により島津家を紹介され、ようやく生活に若干の安定が生まれたそうです。
価値観の変異
しかしなおも芳崖は画家として苦渋を舐め続けます。理由は西洋画に圧されて日本画の価値が落ちていったからでしょう。
当時、日本画は時代遅れの遺物とされ始めており、人々は色鮮やかで写実的な西洋画にあこがれるようになりました。
西洋画に比べると日本画は質素で平坦な落書きに見えたのかもしれません。
転機
時代の底でもがく芳崖に光明を指したのは、東京大学で経済学を教えていたお雇い外国人のフェノロサです。
フェノロサは日本美術に深い関心と可能性を感じており、芳崖の持つ技術に西洋画の技術と色彩を混ぜる提案をします。
芳崖には日本画を率いてきた狩野派としてのプライドがあったことでしょう。
それでも彼はフェノロサの提案を受け入れ、自身の画に鮮やかな色彩と新たな構図を取り入れる試みをします。
フェノロサもまた日本画の再興を切に願っていたのでしょうね。
完成した“新たなる日本画”は高い評価を得たため、狩野 芳崖は注文を捌き切れないほどの人気画師となりました。
ここに日本画の新たなる火が灯ったのですね。
こうして生まれた日本画の可能性は時の総理大臣 伊藤博文に評価され、のちの東京美術学校開設へとつながります。
病魔
芳崖がフェノロサと出会ったのは彼が54歳の時でしたが、この時芳崖は肺を患っておりすでに命のカウントダウンが始まっていたそうです。
それでも彼の制作意欲は衰えず、死の間際にあっても日本画の可能性を追求し続けたようです。
そして絶筆『悲母観音』を画き上げ、その4日後に狩野 芳崖は亡くなりました。
彼を始めとした狩野派の画師たちは弟子を持たなかったため、400年に渡る狩野派の歴史は途絶えました。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
狩野 芳崖作『悲母観音』です。
芳崖最後の作品にして最高傑作ともいわれる日本画です。
前述した通りこの作品の完成後に芳崖は息を引き取っており、この作品の仕上げは親友である橋本雅邦が行ったそうです。
観音とは正式名を観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)と言い、如来となるために修行中の仏を指します。
その目標はあまねく衆生を救うことにあり、この作品においては生を受けたばかりの赤子に徳を込めた水を与えています。
金地は狩野派に限らず日本画で好んで使われる背景ですが、この作品のような深い蒼のグラデーションは史上に類を見ません。
また赤子の肢体は写実性に富んでおり、また画全体の構図はこれまでの日本画には決して存在しなかった遠近感を持っています。
古来より多くの画師が作ってきた仏画でありながら、どの作品とも違う性質を持っています。
まさしく日本画を次の時代に導いた作品と言えるでしょう。
この作品は国の重要文化財に指定されており、東京藝術大学美術館に収蔵されています。
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