• HOME
  • 鑑賞
  • 浮世絵
  • “明治の広重と呼ばれた男” 小林 清親作『両国大火浅草桟橋』を鑑賞する

“明治の広重と呼ばれた男” 小林 清親作『両国大火浅草桟橋』を鑑賞する

浮世絵

作品概要

  • 作品名 両国大火浅草桟橋
  • 画家 小林 清親(1847年~1915年)
  • 制作時期 明治14年(1981年)

清親について

概要

小林 清親(こばやし きよちか)は明治時代に活躍した浮世絵師です。

幕臣の家に生まれたために、幕末では動乱に巻き込まれますが、次代では浮世絵師として東京を中心に制作活動を行いました。

江戸の名所のほか、ここで起きた事件や出来事も浮世絵として残したために“明治時代の歌川広重”と呼ばれています。

生涯

幕末から明治維新にかけて

小林 清親は1847年(弘化4年)に江戸の本所で生まれました。彼の家は征夷大将軍直轄の武家であり、清親は末っ子として生まれます。

清親が15歳の時に父親が亡くなったため、彼は元服し家督を継ぎました。

 

彼が家督を継いだころの日本は、やがて訪れる明治維新を目前に控えた過渡期でした。

“勝てば官軍、負ければ賊軍”と言われた戊辰戦争において、清親は幕府軍として鳥羽・伏見の戦いに参加します。結果は幕府軍の敗戦でした。

 

維新後、清親は将軍 慶喜を追って静岡に向かいます。

記録によれば静岡で居候として食いつないでいたそうです。

1874年に職を求めて東京へ戻りました。

浮世絵師として

居候のころから清親は暇なときに絵を描いていたようで、東京につくと河鍋暁斎らと交流を深めます。しかしながら師匠は持たず、あくまで独学で技術を磨いたと言われています。

 

29歳の頃には版元から江戸の風景を画いた錦絵を刊行します。清親の絵師としての活動が本格的に始まったのですね。

清親の作品は色合いが上品であり、またそれまでの日本画においては基本であった輪郭線を排除しました。

斬新な試みですが、明治時代の人々はこれを好み、清親は早々と人気画師となります。

この手法は“光線画”と呼ばれました。

 

33歳になると出版社に所属し、風刺画を画き始めます。

これには西洋から取り入れた銅版画や石板画などの手法も取り入れました。反対に光線画の制作はされなくなります。

清親は常に新境地を目指して自身を開拓していました。

回帰

清親は36歳で出版社を退社します。

このころの清親の作品には歌川 広重を参考にした古典的なモデルが多くみられ、また技法も光線画に戻っています。

 

またこの年(1894年)には日清戦争が勃発します。

このころの清親を始めとした多くの絵師たちは戦地に向かい、その様子を作品に収めたそうです。清親はもまた戦争画を80点以上も制作しました。

晩年

1900年前後になると、浮世絵の需要はほとんど無くなっていました。

庶民から見た浮世絵の価値は、美しい風景や最近起こった事件を知るところにあります。

そしてその役割は写真や新聞記事が担うようになっていました。

 

以降の清親は諸国を旅し、肉筆画を画くようになったそうです。

鑑賞

 

大きいサイズはこちら

あらためて作品を見てみましょう。

小林 清親 作『両国大火浅草桟橋』です。

 

明治時代に起きた火事の様子を浅草の桟橋から描いたものですね。

このおよそ200年前、江戸最悪の火事と言われた明暦の大火の反省を生かし、墨田川には多くの橋が建設されました。

この火事もまたその橋の一つから描いたのでしょう。

 

炎を含め、作品に目立つ輪郭線は描かれていないため、一見すると西洋絵画のようにも見えます。

色合いは鮮やかで、複数の色を薄く塗り重ねています。

 

そして驚くべきはその迫力ですね。

燃え盛る炎が天まで延び、煙と空を赤く色付けていることがわかります。

当時の人々はこの絵を片手に、凄惨な家事の様子を噂したのでしょう。

 

この作品は町田市立国際版画美術館に収蔵されています。

ピックアップ記事

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA