“謎多き天才” 東洲斎 写楽 作 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 三代目大谷鬼次の江戸兵衛
- 画家 東洲斎 写楽(???年~???年)
- 制作時期 18世紀末(寛政期)
写楽について
概要
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく)は江戸時代中期に活躍した浮世絵師です。
活動期間は1年に満たないものですが、役者絵を始めとした彼の作品群は瞬く間に江戸で流行し、大衆文化の中心となりました。
しかしながらその人物像や経歴には謎が多く、江戸時代ですらその正体について噂になっていたそうです。
当時の研究者の資料、及び近年の検証により彼の正体がようやく明るみに出つつあります。
判明している経歴
東洲斎写楽は1794年(寛政6年)5月からの10ヶ月間活動しています。
その作品は合計で150枚弱あるとされていますが、そのすべては蔦谷重三郎の版元から出版されました。
作品の傾向は大きく分けて4つの時期に分けられていますが、最も人気が高いのは初期の作品群です。
この頃の写楽は被写体の頭部に注目した大首絵を制作しており、さらに表情や顔の一部を誇大に表現することで大衆を驚かせました。
現代で言うところの“デフォルメ”でしょうか。
この斬新な試みでもって、東洲斎写楽は江戸大衆文化の象徴にもなったのですね。
しかしながらこの手法が用いられたのは初期だけです。
まるで自身を否定するかのように、以降の写楽の作品は引きの構図や従来の浮世絵と同じような技法が多用されています。
そのあまりの変貌ぶりに、別人が画いていたと唱える研究者もいます。
そして1795年(寛政7年)の年が明けて少し経った頃に、彼の制作活動は突然に止まりました。
写楽の正体
前述したように、東洲斎 写楽という人物は数人いたという説や、複数人で制作していた工房という説(短期間に多くの作品を制作していたため)がありますが、現在では斎藤十郎兵衛という人物が彼の正体であるという説が主流です。
斎藤十郎兵衛は阿波徳島藩お抱えの能役者ですが、当時は江戸の八丁堀に住んでいました。
この説は、江戸時代の研究者が1844年(写楽の活動休止後50年)に書き記した書物に載ってましたが、近年まではその真偽に対して懐疑的な研究者が多かったそうです。
しかし当時の資料に、斎藤十郎兵衛が八丁堀に住んでいたこと、蔦谷重三郎の版元や歌舞伎の芝居小屋が彼の住所の近辺にあったこと、写楽の住所が八丁堀にあったことなどが示されていることがわかり、この説はにわかに現実味を帯びてきました。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
東洲斎 写楽 作『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』です。
恋女房染分手綱の登場人物の一人であり、金を盗もうとする悪人 江戸兵衛を描いたものですね。大谷鬼次は当代の役者名です。
悪人特有の髪型や、下から値踏みするような目つき、今にも襲い掛からんとする姿勢が描かれています。
またこの構図は、対となる一平の浮世絵を想定して成っています。
写楽が考察通りに能役者の斎藤十郎兵衛だとすれば、当然にこの作品は同じ芸能に生きるものとしての視点から描かれたものとなりますね。
この作品の他、十郎兵衛は市川海老蔵(のちの5代目 市川團十郎)などを描いていますが、デフォルメされた歌舞伎役者たちは、まるでマスコットキャラクターのような人気を獲得し、さらに20文(約500円)という安価で江戸の世を駆け巡りました。
能に比べて歴史は浅く、しかして人気が絶頂である歌舞伎を十郎兵衛はどのように見ていたのでしょう。
この作品はアメリカのメトロポリタン美術館ほか、多くの美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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