“COOL JAPAN” 山村 耕花 作『梨園の花』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 梨園の華 -二代目市川段四郎の鉄心斎-
- 画家 山村 耕花(1885年~1942年)
- 制作時期 1932年ごろ
耕花について
概要
山村 耕花(やまむら こうか)は明治~昭和にかけて活躍した日本画家・浮世絵師です。
尾形 月耕に師事し、その後岡倉 天心が設立した東京美術学校で画業を学んだ耕花は、第1回”日展”の頃からモダン日本画の全線で活躍しました。
代表作“梨園の華”を中心に、耕花は川瀬 巴水と並ぶ、新時代の浮世絵師です。
生涯
新しい日本に生まれ
山村 耕花は日本に内閣制度が導入された、1885年(明治)の東京都品川区に生まれました。
当時の日本にはまだ憲法すらできておらず、この国が『国』として成り立っていく中で、耕花もまた日本と共に育ったと言えます。
耕花は尾形 月耕に師事した後、川合玉堂や横山大観らも卒業生として名を連ねる東京美術学校(現 東京芸大美術学部)に入学します。
そして同校を卒業する22歳の年に、第1回日展(当時の呼び方は文展)に作品を出品し入選しました。
岡倉天心が目指したアカデミックで体系的な日本画教育の見本のような人物だったのですね。
浮世絵師として
美術学校卒業後は日本美術院に加わり、以降の文展にも精力的に作品を出品します。
このころから特に力を入れて始めていたのが役者絵(浮世絵)でした。
勉強熱心だった耕花は広重や歌麿のような古典的浮世絵を収集し、また歌舞伎を見に行き舞台装置や役者の姿を観察したそうです。
また蒔絵や人形といった日本の伝統産業も集め、『総合的な日本の美』習得を目指しました。
その集大成の一つが“梨園の華”シリーズでしょう。
これは当時の人気役者たちを12作の連作で表現したものです。
他の浮世絵師たちの項でもお伝えしているように、この時代における浮世絵の価値は江戸のころと比べて非常に低いです。理由は大衆文化としての役割を雑誌や写真に奪われたからですね。
しかしながら、江戸時代にはなかった色彩表現やデフォルメなく描いた人体描写は、浮世絵の新境地として評価すべきものでしょう。
それを示すように、このような比較的新しい浮世絵たちは、ジャパニーズアートとして欧米を中心に再評価が始まっています。
晩年
53歳の頃、日本は日中戦争を始めました。耕花は自ら従軍し、惨憺たる戦場の光景を絵に残します。
しかし、その最中である1942年に腎臓病を患い、治療も空しく息を引き取りました。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
山村 耕花 作『梨園の華 -二代目市川段四郎の鉄心斎-』です。
二代目 市川段四郎は同時に、初代 市川猿之助でもあります。
そして鉄心斎とは演目『俠客春雨傘(おとこだてはるさめがさ)』に登場する逸見鉄心斎ですね。
舞台は江戸時代の吉原
権力を振りかざし傍若無人なふるまいをする武士に対し、主人公の大口屋暁雨(ぎょうう)が豪快な啖呵を切る芝居です。
鉄心斎は主人公の敵役である武士ですね。マサカリのような特徴的な髪形が目を引きます。
目線は相手をたしなめるようにしたたかで、やや前傾の姿勢もまたメンチを切っているように見えます。
これほどの写実的かつ活力のある人物画を、耕花はわずか数種類のシンプルな色彩で表現しました。
その結果、見る者の意識は鉄心斎だけに向けられ、その目力に時間を奪われます。
90年前に描かれた作品は、現代でも通用するレベルのスマートさを持ち合わせていました。
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