“画鬼と名乗った男” 河鍋 暁斎 作『地獄太夫図』を鑑賞する

浮世絵

作品概要

  • 作品名 地獄太夫素図
  • 画家 河鍋 暁斎(1831年~1889年)
  • 制作時期 1871年ごろ

暁斎について

概要

河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい)は幕末から明治時代に活躍した日本画家・浮世絵師です。

葛飾 北斎のように自身を画狂と認識し、流派を問わず多くの画術を貪欲に吸収しました。

それゆえに作品の幅も広く戯画から日本画、浮世絵に至るまで多くの作品を残しています。

周囲は彼を『画鬼』と呼びました。

生涯

画に生真面目な青年

河鍋 暁斎は天保2年(1831年)に現在の茨城県に生まれました。父母ともに武家です。

 

16歳で浮世絵師 歌川 国芳に入門し画術を学びます。

国芳は幕末を代表する浮世絵師で、動的描写を重視する芸術家でした。そのため暁斎にも、市中を歩き人の動く様々な姿を観察せよと教えます。

これを聞いた暁斎は毎日江戸の町を歩いては喧嘩を探して写生していたそうです。

また、雨の日に神門川で生首を拾いそれも写生していたそうで、周りの人々は驚いていたそうです。

日本画の勉強

浮世絵師に入門して3年後には狩野派の画師のもとへ再入門しました。これには暁斎自身ではなく父の意思が働いたようです。(歌川国芳は江戸っ子気質で素行に問題がありました。)

新たな師匠は暁斎を愛し、画に執着する鬼として“画鬼”と呼びます。

しかし翌年に師匠が無くなったため、さらにその上の師匠に弟子入りしています。

 

27歳ごろから肉筆画(浮世絵)を制作し始めたと言われており、これはすなわち狩野派の修業を僅か9年で終わらせたことを意味しています。

浮世画、日本画ともに暁斎は驚異的な吸収力を持っていました。

ひとり立ち

世は幕末です。30歳を越えた暁斎は、歴史の影に埋もれていた琳派や京都四条派等の画風を研究し始めました。

そして安政地震の頃にから画き始めた戯画・風刺画とった大衆芸能から、暁斎の才能は世の中の知るところとなります。

このころから画狂たる自らを指して『狂斎』という画号を用い、さらにこれが後々『暁斎』へと変化します。

狂斎としての時期は専ら錦絵を中心に活動しており、歌川派の画師とも交流があったようです。

日本を代表する画師へ

幕末の動乱を家族とともに乗り越えた暁斎は静岡へ移りました。

維新後は風刺画が政府の目に留まり投獄されることがあるも、明治5年(暁斎41歳)には“安愚楽鍋”や”西洋同中膝栗毛”などの挿絵を担当し、さらに翌年にはウィーン万博への出展を成しています。

また日本画家としての活動は内国勧業博覧会の『枯木寒鴉図』も評価されており、暁斎は狩野派の技法を残す貴重な画師として認知されました。

 

51歳の頃、暁斎の作品に感動した一人の男が彼に弟子入りを志願しました。イギリスからのお雇い外国人、建築家のジョサイア・コンドルです。

2人は指定でありながら親友と呼べるほど親しくなり、暁斎はコンドルに『暁英』の画号を授けました。

 

しかしその友情は病魔によって断たれてしまいます。

河鍋 暁斎は1889年に胃癌でこの世を去りました。死の淵では親友コンドルの手を握っていたそうです。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

河鍋 暁斎 作『地獄太夫図(じごくだゆうず)』です。

 

地獄太夫は室町時代に実在していた遊女です。

太夫は女郎落ちという自らの不幸を前世からの因縁と考え、この世を地獄と認識し自らこの名をつけたと言われています。

座敷では客前で風流の唄を歌いつつも心の中では経を唱え、服には鬼哭愁々たる地獄の様子が刺繍されていたそうです。

その浮世離れしたキャラクターはモデルとして人気を博し、暁斎のほか月岡芳年など多くの画家が彼女を画きました。

 

この作品は明治3年に描かれています。すなわち浮世絵や日本画の文化的な過渡期ですね。

文明開化と言えば聞こえは良いかもしれませんが、平たく言えばこれはただの混乱でしょう。

太夫はしゃれこうべたちが踊る中で静かに金棒に頬杖をついており、裾からは閻魔大王が顔をのぞかせています。さらに太夫の足元にはすすり泣く少女がいますね。

 

風刺画家としても活動した暁斎は民衆とともに文明開化を踊りながらも、心のどこかで栄枯盛衰の無常を見ていたのかもしれません。

この太夫は暁斎のそのような側面が具現化したように思えます。

 

この作品は河鍋暁斎記念美術館に収蔵されています。

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