“謎多き絵師” -伊藤 若冲作『月梅図』を鑑賞する-
目次
作品概要
- 作品名 月梅図
- 画家 伊藤 若冲(1716年~1800年)
- 制作時期 江戸時代中期(1755年)
若冲について
概要
伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう)は江戸中期(正徳紀~寛政紀)に活躍した日本画家です。
動植物画を大変得意とし、多くの弟子を育て日本画壇に多大な影響を残した人物の一人です。
ただしその生涯はまだ謎が残る部分も多く、目下研究対象の画家です。彼の残した作品のいくつかも真偽が分かれているそうです。
生涯
生まれ
伊藤 若冲は正徳6年に京都の青物問屋(野菜と果物の商人)の長男として生まれました。
ただしここでいう問屋とは今でいう小売業ではなく、多くの商店を管理するものを意味します。
したがって若冲の家は少ない労働ながら大きな利益を得ていました。
2つの改革
若冲の生きた時代は8代将軍 徳川吉宗が活躍した時代です。
彼は享保の改革を行い、江戸を中心に日本の財政事情を立て直しました。
若冲隠居後の寛政期には松平定信が寛政の改革を行っていますね。
江戸から離れていたとはいえ、若冲も少なからず時代の動乱に巻き込まれたでしょう。
絵師として生きる
23歳のときに若冲は父の死去に伴い家督を継いだそうですが、前述の通り暇な時間が十分ある大旦那といった立場でしたので、専ら画を描くことに従事していたそうですよ。
また当時の旦那としては珍しく、”飲む(酒)・打つ(博打)・買う(女)”のどれにも興味を示さず、生涯妻さえめとることはなかったそうです。
さらに家督も40歳のころには弟に譲り、若冲は生涯を画業に充てようとしました。
大旦那という肩書を捨てた若冲は名を改め隠居します。
そしてこの時期に『動植綵絵』や『鹿苑寺障壁画』、『釈迦三尊図』といった数々の傑作を描きました。
ちなみに鹿苑寺とは金閣寺のことです。
晩年
しかし、56歳のときに若冲は京都のとある町の政治に関わります。
当時の錦高倉市場は4町が合同で市場を営業していましたが、奉行所から営業停止命令が下ります。
そんな中若冲は市場再開のために東奔西走し、3年後ついに市場再開の許可が下りたそうですよ。
この時期に若冲がどのような創作活動をしていたのかは分からず、作品も少ないそうです。
73歳の時(天明8年)には京都大火により自宅を焼失してしまい、京都伏見の石峯寺に住みます。
しかしこのような困難な状況でも創作はやめず、京都の寺院を中心に多くの障壁画を描きました。
そして寛政12年に84年の生涯を閉じたそうです。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
伊藤 若冲 作『月梅図』です。
前述した『動植綵絵』に見られるように、若冲は自然物の表現において卓越した技能を持つ画家です。
おぼろげに月が輝く初春の晩、梅はその生命力のままに天へと向かい咲き乱れます。
その枝もまた自然でありながら自己の存在をアピールしており、画全体がほのかに輝きを放つようにさえ見えました。
若冲には多くの弟子もいたそうですが、彼らもまたこの画の前に息をのんだことでしょう。
梅の花の咲く時期の夜であれば、まだ肌を刺すような寒さが残っているのでしょうが、この梅はそれを意に介さないように力強く咲いていますね。
この作品はニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されています。
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