“価値観の破壊者” 後編 エドゥアール・マネ 作『フォリー・ベルジェ―ルのバー』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 フォリー・ベルジェ―ルのバー
- 画家 エドゥアール・マネ(1832年~1883年)
- 制作時期 1882年ごろ
マネについて
概要
エドゥアール・マネは19世紀に活動していたフランスの画家です。
パリを拠点とし、急速に発展を遂げる街並みやその情景を巧みな技術で描写したマネは、フランス芸術界に革新をもたらしました。
また彼の活動が、後に始まる印象主義のきっかけになったとされています。
生涯
印象派の立役者
サロンで酷評を浴びたマネは、めげずにベラスケスなど先人の技術を習得し、翌年にも作品を出展しますが落選しました。
一部の新進気鋭画家からは、彼を強く評価する声も上がりましたが、残念ながら画壇の重鎮たちを納得させることは成功していません。
故に意気消沈したマネはサロン会場の近くに会場を建設し、多数ある自身の作品のみを展示した個展を開きました。
ほとんどの人は見向きもしませんが、彼に心酔する画家たちにとっては、たまらない催しだったでしょうね。
またこの試みは、若い画家達に別の可能性を与えました。
“評価を与えられないが故に世に出ることもないのなら、自分たちで世に解き放てばよい”
そう、後の第一回印象派展です。
才能や創作心を燻らせていた印象派画家達にとって、マネの行いは天啓に感じたのでしょう。
しかしながら、その起点たるマネ自身は印象派展に参加することはありませんでした。マネはあくまでサロンでの、大衆への評価を欲していたのです。
サロンへの努力
マネは普仏戦争に従軍し、さらにその後のパリコミューン形成に伴う激動の時代をくぐり抜けると、再びサロンへの入選に向けて制作活動を始めます。
しかしながら依然として、画家としての彼の本来の方向性は審査員たちに不評であったため、時には妥協を余儀なくされました。
その妥協の末には作品が入選することもありましたが、彼を慕う新進気鋭画家たちからは非難されたそうです。
画家としての名声と、自身の美への追求、そして彼への周囲からの期待はそれぞれが異なるベクトルを持っていたのですね。
病魔の進行
1880年ごろになると、マネの制作活動は停滞を余儀なくされます。それは若い頃に感染した梅毒が、未だに彼を蝕んでいるからでした。
彼の左足は壊疽し、最晩年の作品たちは左足の激痛と闘いながらの作業となったそうです。
そして1883年、ベッドから起き上がることもままならなくなったマネは、静かに息を引き取ったそうです。
依然としてフランスでの彼の評価は低かったものの、病床のマネのもとには画家仲間はおろか、上流階級のファンに至るまでが集っていたそうですよ。
マネと同年代で印象派の画家であるエドガー・ドガは、
「われわれが考えていた以上に、彼は偉大だった」
と述べたそうです。
死後の評価
死の翌年から、ベルト・モリゾなど彼を慕う画家たちは、彼を忍んで回顧展を開くことを企画しました。
印象派画家たちは美術界に対し、マネの評価させることを諦めていなかったのですね。
また死の6年後には、旧友モネの働きかけにより、問題作『オランピア』がフランス美術100年展に出展されます。
この時点でもフランス美術界からは懸念の声が上がっていましたが、以降も献身的に活動は続けられ、1932年の“生誕100年記念展”にて、ようやく彼の芸術は国家的に認められました。
それは実に、死後50年が経った後でした。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
エドゥアール・マネ 作『フォリー・ベルジェ―ルのバー』です。
現在も営業しているパリのミュージックバー”フォリー・ベルジェ―ル”にて、接客をしているバーメイドを描いた作品です。
カウンターの背後は鏡張りになっており、そこには彼女の後姿と、彼女と会話をする紳士が映されています。
正面に紳士の姿が見えないことから、彼は鑑賞者である我々の横、即ち画面の左外にいるという構図になっているのですね。
気になるのは、煌びやかな店内とは裏腹にうつろな表情を抱えるバーメイド
これは彼女が娼婦であることを暗示しているそうです。
というのも、当時のフランス社会では、バーメイドとして娼婦を雇うことが割とあったそうです。
上流階級の男性たちは、店内の酒同様に彼女たちを物色するのですね。
さらにこの作品には、意図的に遠近感を崩すことで、鑑賞者の注目を女性の表情に集めるテクニックが用いられています。
マネは確かな技術と哲学で、フランス社会の光と闇を画面に収めたのですね。
この作品はロンドンのコート―ルドギャラリーに収蔵されています。
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