“神宿る筆” 呉 道玄 作『八十七神仙図巻』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 八十七神仙図巻
- 画家 呉 道玄
- 制作時期 8世紀ごろ
道玄について
概要
呉 道玄(ご どうげん)は唐代の中国で活躍した画師です。
道玄は秦の時代から続く山水画に革新をもたらし、新たな表現方法とともに山水画の新境地を開拓しました。
のちにそれは“山水の変”と呼ばれ、後進の画師たちに大きな影響を与えます。
同世代の画家ですら、その筆には神が宿ると評しました。
生涯
書家から画家へ
呉道玄は8世紀の唐、河南省に生まれたと言われています。
家系や家柄は不明ですが、名士や役人の家系ではないようですね。
若い頃の道玄は書家を目指していました。
当時の中国では、詩/書/画を文化の柱としており、彼は高名な書家のもとでこれを学びます。
しかしなかなか上達することができず、道半ばで画師への転向を決めました。
山水画を学ぶ
道玄は平民でありながら役人の仕事を担う、胥吏(しょり)という仕事につきます。
そしてここでの上司の支援により、山水画を数多く写し取る機会を得ました。
こうして数多くの山水画に触れる中で、道玄は自身のオリジナリティを混ぜた、独自の世界観を構築します。
“天賦の才”とは彼のためにあるのではないか、そう思えるほどに道玄は、初めて筆を執った時から優れていました。
彼の名はすぐに唐の芸術界に広まり、彼は弟子を抱える大家となりました。
さらにその噂は、時の皇帝である玄宗の耳へ届き、道玄は玄宗の命で宮中へと招かれます。
宮中へ
やがて玄宗皇帝お抱えの画師となると、引き換えに自由に創作ができなくなりました。
しかし道玄はその中でも研鑽を重ね、最終的には皇帝の兄直属の官まで上り詰めます。
725年の泰山封禅(玄宗が天下泰平を願う行事)の際は、剣豪として名を馳せた裴 旻(はい びん)と出会いました。
裴旻は道玄に、自社の壁画制作を依頼しますが、道玄はこの依頼に対し消極的な姿勢を見せます。(宮中に入ってからは制作の機会が減り、腕がなまっていると自認していたからです。)
しかし、道玄の頼みで裴旻が自らの嫌疑を披露すると、これにいたく感動した道玄は力強く筆を走らせ壁画を完成させたそうです。
また、病に罹った玄宗が回復した折に命じた”魔払い”では、道玄の画いた鍾馗(しょうき)が全土に配られたそうです。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
呉 道玄 作『八十七神仙図巻』の一部です。
これは皇帝が神々や仙人とともに行脚する様子を画いたもので、作中では道教における仙人や神々、また金童玉女が皇帝を囲んで歩いています。
作品中央、後光の射すふくよかな男性が皇帝でしょう。
墨一色でありながら、それを感じさせない豪華絢爛たる雰囲気は、柔らかくも力強い、道玄の筆だからこそ成せた技でしょう。
呉道玄は山水、仏、道教、動物、鬼の全てにおいて並ぶ者のいない才能と言われたそうです。
同時代の張 懐瓘(ちょう かいかん)曰く、
「下ろした筆には神が宿り、彼は200年前の画聖の生まれ変わりである。」
という最上級の賛辞を得ました。
他の画師や評論家たちも同様の評価を残しています。
その才能は万人から嫉妬心すら消し去り、信仰心すら芽生えさせました。
まさしく『画聖』という称号にふさわしい人物ですね。
この作品は、北京の徐悲鴻記念館に収蔵されています。
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