“農民のための画家” 前編-ミレー作『種まく人』を鑑賞する-

風景画

作品概要

  • 作品名 種まく人
  • 画家 ジャン=フランソワ・ミレー(1814年~1875年)
  • 制作時期 1850年

ミレーについて

概要

ジャン=フランソワ・ミレーは19世紀フランスの画家です。

駆け出しのころはルネサンスを熱心に勉強し肖像画や人物画、裸婦を中心に活動しましたが、フランス革命の時期に描いたものを契機に農民画を画きます。

その後、農村であるバルビゾンに移住すると精力的に制作を続けましたが、彼の描く農民たちはその悲惨さから政府への悪印象を煽るものも多かったそうです。

しかしながら晩年及び死後は彼の評価が高まり、今ではバルビゾン派の一人に数えられています。

生涯

青年期

ミレーはフランスのノルマンディー地方の村に生まれました。彼の家は農家でありながらその地方の名士だったそうです。

ミレーは長男だったため当然後継ぎとして期待されますが、画家としての才覚を見抜いた祖母を中心に画家のラングロワのもとへ推薦されます。

さらにラングロワからパリのエコール(王立美術学校)へ推薦されました。奨学金も支給されたそうです。

エコール在学時にはルーブル美術館に足しげく通い、ルネサンス期の芸術に没頭しますが、反面エコールの教師であったドラローシュの教えるアカデミズムに対しては不真面目でした。

結婚と死別

27歳の時にミレーはポーリーヌと結婚します。

このころミレーはシェルブールという町の社交界から次々と肖像画の依頼を受けている人気画家でした。

彼が描いた肖像画は4年で50枚を超えるそうです。

 

その後、とある失態でシェルブール議会から糾弾されたミレーは妻とともにパリへ引っ越します。

しかし華々しい都会は得てして不衛生さを孕みます。

パリの毒気に充てられたポーリーヌは結核にかかり、間もなく命を落としました。

低迷期

妻を失ったミレーは実家に戻り、そこで18歳のルメールと恋に落ちますがミレーの家族はその恋を祝福してはくれませんでした。

ミレーは独力で資金を蓄え再度パリに移住し、そこで後にバルビゾン派の同志となるルソーやジャックと出会います。

移住当初は生活費のために裸婦画を描いていましたが、たまたま目にした若者が自分の作品を嘲笑している様子を見たとき、自分を恥じたそうです。そして自らの描きたいものを考え抜いたときに“田園”というテーマに辿り着きました。

バルビゾンへ

34歳の時に描いた『刈入れ人たちの休息』はサロンで高い評価を得ました。

彼の描いた作品はトリコロールの3色がバランスよくつかわれていたため、革命の最中であったフランスに最高の印象を与えたのでしょう。

翌年にはパリでコレラが流行したため、ミレー一家は画家仲間の誘いを受けてバルビゾン村へ移住します。

 

バルビゾンはまさにミレーにとって桃源郷でした。

ここでその日を力強く生きる農民たちの姿はミレーの制作意欲を強く刺激したでしょう。

同年代にコローら他のバルビゾン派の画家たちも旅行、もしくは移住しています。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

ジャン=フランソワ・ミレー作 『種まく人』です。

 

この作品は当時から賛否を巻き起こしました。

当時のフランスでは革命により発言力を増した農民は邪魔者扱いされていたため、それを前面に出したこの作品は「政治的な圧力を狙うものだ。」と非難されたのでしょう。一方で「この絵は民衆の力を象徴したものだ。」とも言われたかもしれません。

ミレーの真意はわかりませんが、私はそのどちらでもなかったと思います。

それが証拠にミレーは

「結局、農民画が私の気質に合っている。社会主義者とのレッテルを貼られることがあったにしても、芸術で、最も私の心を動かすのは何よりも人間的な側面なのだ。」

と語っています。

結局自らの創作意欲に従っていただけなんですね。

 

この作品はボストン美術館に所蔵されています。

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