“芸術が世論を動かす” ドラクロワ 作『キオス島の虐殺』を鑑賞する
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作品概要
- 作品名 キオス島の虐殺
- 画家 ウジェーヌ・ドラクロワ(1798年~1863年)
- 制作時期 1824年ごろ
ドラクロワについて
概要
ウジェーヌ・ドラクロワは19世紀のフランスで活躍した画家です。
テオドール・ジェリコーに影響を受けた、ロマン主義を代表する芸術家の一人であり、中世の情景を後世に伝える数々の名作を描きました。
その性質から、制作において批判を浴びることもありましたが、フランスの民族性を顕現させた英雄的画家と言えましょう。
生涯
作品背景
史実を表した作品です。
15世紀半ばまでギリシャは東ローマ帝国に属していましたが、同国がオスマン帝国に滅ぼされてからは、オスマン帝国の支配下にいました。
その期間は長く、実に約370年に及ぶそうです。
この均衡が崩れたのは1821年ごろです。
ギリシャの独立を目指す秘密組織 フィリキ・エテリアを中心に蜂起したギリシャ人の運動は、瞬く間に全土に広がりました。世に言うギリシャ独立戦争の開幕ですね。
フィリキ・エテリアはロシア在住のギリシャ人たちを中心に構成されており、ロシア帝国の援助のもと力を蓄えていました。
ロシアとしても地中海周辺への影響力を得たい思惑があり、また同じキリスト教徒がイスラムの支配下にある状況を看過できなかったのでしょう。
また近い理由で、覇権を狙うイギリスやフランスと言った列強も戦線に加わります。
対するオスマン帝国はエジプトと同盟を結び、独立戦争は様々な思惑が重なり合う代理戦争の様相を呈しました。
戦争は約10年も続き戦況もまた二転三転しますが、ナヴァリノ海戦や露土戦争でのオスマン帝国敗北を経てギリシャは勝利しました。
そして1828年にはギリシャ人による自治がオスマン帝国より認められ、1832年にはロンドン条約によりギリシャ王国は正式に独立国として認可されます。
本項のモデルとなった事件は、ギリシャ独立戦争の初期に起こりました。
キオス島はエーゲ海にある小さな島ですが、1822年にオスマン帝国軍は、独立派の鎮圧のためにこの島の一般市民を含む多くの住民を虐殺します。
これは前年に始まったギリシャ独立戦争への警告も兼ねて行われた行為ですが、そのあまりの凄惨さはギリシャ民族を焚き付け、それどころかキリスト教圏諸国の反感すら買うこととなりました。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
ウジェーヌ・ドラクロワ 作『キオス島の虐殺』です。
画面左手にはギリシャ人たちの死体が積まれており、右手には縋りつく人々を振り払おうとするトルコ人将校が描かれていますね。
右下には絶望に空を見る老婆や、亡くなってしまった母に泣きつく乳飲み子がおり、みすぼらしいギリシャ人と豪奢なトルコ人が対照的です。
この作品では2つのピラミッドを配置するかのような構図がなされており、双方の合間からは理不尽に対して叫ぶギリシャ人も見受けられましょう。
事件の2年後に描かれたこの作品は、瞬く間にヨーロッパを駆け巡りました。
まだ写真と言う概念がなく、情報は活字のみを媒体に世を闊歩していたこの時代において、凄惨な虐殺の様子を描いたドラクロワの作品はヨーロッパ市民の注目を一身に集めます。
まさに“百聞は一見に如かず”
キリスト教圏を中心に大きく揺れ動いた世論は国を動かし、諸国はギリシャの独立に向け支援を開始しました。
大国の思惑はともかくとして、新たなジャーナリズムを垣間見ることができたことに対し、市民はドラクロワに感謝したかもしれませんね。
この作品はパリのルーブル美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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