“自由の顕在化” ドラクロワ 作『民衆を導く自由の女神』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 民衆を導く自由(の女神)
- 画家 ウジェーヌ・ドラクロワ(1798年~1863年)
- 制作時期 1830年
ドラクロワについて
概要
ウジェーヌ・ドラクロワは19世紀のフランスで活躍した画家です。
テオドール・ジェリコーに影響を受けた、ロマン主義を代表する芸術家の一人であり、中世の情景を後世に伝える数々の名作を描きました。
その性質から、制作において批判を浴びることもありましたが、フランスの民族性を顕現させた英雄的画家と言えましょう。
生涯
画家になるまで
ドラクロワは1798年のパリに生まれました。
父親は外交官のシャルル=フランソッワ・ドラクロワですが、フランスの元首相タレーランが実父であるという説もあります。
荒唐無稽な説に思えますが、その容姿やフランス政府の不可解な庇護のために、有力であるという研究者も多く存在します。
新古典主義の画家のもとへ入門しますが、最終的に彼はロマン主義を中心に活動する画家となりました。
これには、彼が生きた時代のフランスの動乱が背景にあるためでしょう。
ロマン主義とは
ロマン主義は18世紀末~19世紀に起こった芸術運動の総称です。
それまで芸術界において支配的であったのは、ルネサンスに端を発する理論的かつアカデミックな作品たちでした。
現実の正確な切り取り、もしくは神話世界の体現という意味において、ルネサンスのもたらした影響は計り知れません。
しかし、ジェリコーを始めとした一部の画家たちは、芸術への感情的・詩的な精神の融合を模索しました。
こうして、ルネサンスや古典主義と対極を成すロマン主義が誕生します。
ジェリコやドラクロワの生きたフランスは、度々起きる革命により政治体制が二転三転していました。
この中においてドラクロワは常に、最も被害を被る民衆の視点から絵画を描きます。
画家としての評価
ドラクロワが26歳の時に、結核のためにジェリコーが早世しました(享年 32歳)。ジェリコーを信仰していたドラクロワは、この知らせに大いに悲しみます。
この頃はドラクロワもまた、ロマン主義を象徴する画家の一人と呼ばれており、彼の死の6年後に起きた“フランス7月革命”において、代表作たる『民衆を導く自由』を描きました。
この作品は革命の記念として政府が買い上げますが、政治的な要素が強すぎるとして、16年間も日の目を浴びずに収蔵されていたそうです。
しかし混乱が収まると同時に再評価も進み、ドラクロワの肖像画とともにフランスの紙幣にも採用されました。
また、代表作の制作以降も各地の宮殿の装飾画を中心とした、制作活動に終生携わったそうです。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
ウジェーヌ・ドラクロワ 作『民衆を導く自由(の女神)』です。
王政復古により復権したブルボン朝は、実質的に極右主義者(ユルトラ)の傀儡になりました。
その結果、国民の大多数を占める中流・労働者階級の不満は高まり、トリコロールを掲げた大規模な暴動に発展します。
世に言う7月革命ですね。
作品ではマスケット銃を持った人々を、トリコロールを掲げた女性が先導している様子が描かれています。
この女性はマリアンヌという名前ですが、モデルとなった神はいません。
マリアンヌはフランスという国の“自由”そのものであり、自由が擬人化した存在です。
それ故に、この作品の正式な題名は『民衆を導く自由』なのです。(”女神”は邦題が付けられた際に、便宜上与えられたものです。)
ドラクロワは、ボロボロの服で死体の上に立ち、なおも民衆を扇動する女性に、フランス国民の不屈の精神を重ねました。
そして革命は成功し、ドラクロワの描いた女性はフランスそのものとなります。
この作品はフランスのルーブル美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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