“日本画に写実性を” 円山 応挙 作『雪松図屏風』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 雪松図屏風
- 画家 円山 応挙(1733年~1795年)
- 制作時期 1786年(天明6年)ごろ
応挙について
概要
円山 応挙(まるやま おうきょ)は江戸時代に活躍した日本画家です。
桃山時代から続く狩野派の画術を修得した応挙は、それをさらに昇華させ『円山派』を作りました。
日本画ながら高い写実性を持つ彼の流派は、数百年に渡り日本画壇主流の流派となりました。
生涯
狩野派に師事
円山 応挙は1733年(享保18年)に、現在の京都に生まれました。
生家は農家だったため、当代の階級としては低い位置にあったと言えましょう。
少年時代に関する詳しい記録は残されていませんが、10代の頃には画業に携わっていたことがわかっています。
応挙は狩野派の系譜を継ぐ、狩野探幽に師事し日本画を学びます。
探幽は狩野派のみならず、水墨画や中国画を学び流派の可能性を広げた功績を持つ人物でした。
かの徳川家康の御用絵師も務めたそうで、師としては最高の人物だったでしょう。
修行時代
20代の頃の応挙は浮世絵を中心に活動しています。
当時の流行は、錦絵を工夫により立体的に見せた“眼鏡画”というものだったそうで、ポピュラーなテーマから彼の名は世間に広がりました。
33歳になると良く知られた“応挙”の画号を用います。これは中国画の大家から文字を拝借したそうで、あえて大きなネームを背負うことで自身へ願をかける狙いがあったそうです。
最盛期
応挙は2人の有力なパトロンを持っていました。園城寺円満院の僧である祐常と、豪商であった三井家です。
園城寺は天台寺門宗の総本山であり、祐常は公家から出家した当寺のトップを務めていました。
祐常は応挙に多くの仏画や襖絵を依頼しており、今日ではそのいくつかが重要文化財となっています。
三井家は“越後屋”を中心に活動した江戸の呉服屋です。
やがてそれは三井財閥となり、財閥解体後も日本経済の中核を担うグループとして残りました。
三井家はその資本力を惜しみなく応挙に注ぎ、『山水図屏風』などの名作を生む原動力となります。
応挙は63歳で没しますが、息子の円山応瑞を始めとした多くの弟子たちを育て、その系譜を今日に伝えます。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
円山 応挙 作『雪松図屏風』です。
両隻からなる1対の屏風に描かれた松たちは、互いに向き合い美しく佇んでいます。
その枝ぶりは優雅で、やわらかに積もった雪が彼らを彩っていますね。
この画の魔力は、冬の真っただ中ながら、華やかな印象を得てしまうところにあると言えましょう。
円山 応挙は写生を非常に重んじた画家だったそうで、祐常によれば、常に懐に写生帖を忍ばせて機を見つけてはそこへ筆を走らせていたそうです。
故に彼の画く動植物たちは“活きて”おり、日本画ながら日本画らしからぬ写実性を獲得しています。
しかしながら見るものを拒まない懐の広さも持ち合わせており、その親しみやすさは浮世絵を経たからこそ得たものと言えましょう。
現代に続く円山派の中心たるこの作品は、国宝に指定されています。
この作品は三井記念美術館に所蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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