“近代日本画の父” 竜編 橋本 雅邦作『白雲紅樹図』を鑑賞する

日本画

作品概要

  • 作品名 白雲紅樹図
  • 画家 橋本 雅邦(1835年~1908年)
  • 制作時期 1890年(明治23年)

雅邦について

概要

橋本 雅邦(はしもと がほう)は明治から大正にかけて活躍した日本画家です。

文明開化とともに押し寄せた西洋画の流行により、日本画は時代遅れとされ衰退の道を歩んでいました。

橋本 雅邦は親友である狩野 芳崖や西洋画の師アーネスト・フェノロサとともに日本画を再研究し、新たな表現を駆使してこれを再興させました。

ゆえに雅邦は日本画の”近世”と”近代”の橋渡しを行ったと言われています。

生涯

日本画の英才教育

橋本 雅邦は天保6年(1835年)に武蔵の川越藩お抱えの絵師のもとに生まれました。

武蔵国は現在の埼玉県にあったそうで、雅邦は5歳の時から父の指南により狩野派の日本画を学び、さらにその7年後には父の師にあたる人物に弟子入りしています。

まさしく日本画の英才教育であり、同門の兄弟子 狩野芳崖と切磋琢磨しながら技術を磨きました。

ちなみにこの二人は“勝川院の竜虎”と呼ばれたそうですよ。(勝川院とは二人が弟子入りしていた絵師です。)

独立

25歳の時に彼は画号を授かり、画師として独立します。

しかしながらこの時の日本は明治維新を7年後に控えた過渡期であり、世が倒幕と佐幕の間で揺れ動いた時期でした。

雅邦をはじめとした絵師たちの仕事は激減し、そもそも時代が激動する中では文化的な娯楽への需要が急速に減っていきました。

版籍奉還や廃藩により懇意にしていた川越藩もなくなり、雅邦は海軍兵学校で製図を行っていたそうです。

転機

橋本 雅邦はアーネスト・フェノロサに出会い、画家としての人生に光明を見出しました。

フェノロサはハーバード大学で経済学を修め、お雇い外国人として東京大学で教授をした人物です。

専門外でありながらも日本芸術に深い関心を持っていたフェノロサを、橋本 雅邦は兄弟子 狩野芳崖を介して知り合います。

 

そしてフェノロサの協力のもと、雅邦は西洋画の技法を取り入れた新しい日本画の表現を模索しました。

雅邦の画いた作品は瞬く間に評価され、一部は宮内庁の御用となったそうです。

画師の矜持

51歳の時に雅邦は海軍兵学校を辞職し、文部省の絵画取調所に勤務します。あくまで自身の本業は画業であるという想いが長年蓄積されていたのでしょう。

そしてフェノロサや岡倉天心、狩野芳崖らとともに東京美術学校を発足しました。

しかし、開校を目前に控えた時期に親友 狩野芳崖が亡くなってしまいます。

芳崖は同校絵画科の主任を任される予定だったため、雅邦が代わりにこれを受けました。

後進の育成

60歳を迎えるころの橋本 雅邦は、のちの日本画壇を牽引する画家たちを数多く育成します。

彼らはみな日本画に革新をもたらしており、例えば横山大観は”朦朧体”と呼ばれる日本画の新機軸を作り出しました。

また川合玉堂は、日本画の中に西洋画のような写実性と中国画のような精神性を混ぜています。

 

のちに岡倉天心が美術学校を罷免された時には雅邦もこれに連れ添い辞職していますが、以後も日本美術院の重鎮として後進の育成に励んでいたそうです。

明治41年(1908年)に胃癌のため73年の生涯を閉じました。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

橋本 雅邦作『白雲紅樹図』です。

 

驚嘆すべきはその構図と色彩でしょう。

一見すると日本画おなじみの山水画のように見えますが、視点を研究し尽くした遠近法により高い写実性を得ています。

また画全体が深い透明感を持っており、さらにそれらにも遠近法を適用することで風景に奥行きを持たせていますね。

もやにより霞んだ紅葉は幻想的な雰囲気を醸し出しており、桃源郷への入り口であるかのような風景として仕上がりました。

 

現在は国の重要文化財かつ国宝に指定されており、東京藝術大学美術館に収蔵されています。

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