“江戸の魔除け” 葛飾 北斎 『鍾馗騎獅図』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 鍾馗騎獅図
- 画家 葛飾北斎(1760年~1849年)
- 制作時期 天保15年(1844年)ごろ
北斎について
概要
葛飾北斎は江戸時代の日本で活躍した浮世絵師です。
江戸の町人文化を象徴する芸術家の一人であり、日本の大衆文化の発展に大きく貢献しました。
彼が生涯に描いた作品は実に3万点を超えます。それはもはや狂人の域であり、それを自覚してか自らを“画狂人”と称しています。
生涯
鍾馗とは
鍾馗とは中国に実在した人物であると同時に、道教に伝わる神様です。
唐の第6代皇帝である玄宗が病に伏した時、彼の夢の中に現れた大鬼が悪鬼羅刹を倒しました。
玄宗が大鬼の正体を訪ねると、
大鬼は自分を鍾馗と名乗り、さらに科挙で落第したために自殺した旨を説明します。
後悔と無念の中で鍾馗は鬼へと変貌しましたが、唐の初代皇帝への恩義のために、同じく唐の皇帝である玄宗を助けました。
目が覚めた玄宗の体からは不思議なことに病魔が去っていました。
夢での記憶を頼りに玄宗は、画家であり賢人であった呉道玄に鍾馗の絵を画かせます。
するとその容姿は夢で見た大鬼と瓜二つだったために、玄宗は驚きました。
鍾馗の神通力を信じた玄宗は、彼の画を魔除け・厄除けとして国中に広めることを命じたそうです。
辟邪絵について
日本においてその文化は“辟邪絵”(へきじゃえ)という名で平安時代に伝わってきたそうです。
平安時代と言えば、その名に似つかわしくないほど鬼哭愁々とした時代ですね。
貧富の差が極大した果てに、都の河原は死体で溢れ疫病が蔓延したそうです。
人々はすがるようにこの画を欲したことでしょう。
時代が経ると鍾馗は画から人形へと姿を変え、五月人形や屋根の鬼瓦の代わりとして用いられたそうです。
西洋のガーゴイルと近い立ち位置ですね。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
葛飾北斎作『鍾馗騎獅図』です。
この頃の彼の正式な画号は“画狂老人卍”です。
浮世絵で有名な葛飾北斎ですが、晩年は肉筆画を良く画いていました。
きっかけは、6年に渡る天保の大飢饉で版元が休業状態に陥ったことだそうです。
北斎は取り急ぎ制作できる肉筆画で、弟子たちとともに食い扶持を稼ぎました。
時の人気画師すら瀕死に陥れるレベルの経済崩壊、
天保の大飢饉はまさに当時の日本社会にとって、未曾有のエコノミックハザードと言えるでしょう。
また北斎は、60歳になる頃から自然や動植物に対し信仰とさえいえるほどの熱を持っていましたが、最晩年になるとその精神は仏画や神画の傾倒へと進化します。
この作品は84歳の時に描かれたと言われていますが、その進化の過程で生み出されたものとも考えられます。
画中の鍾馗や獅子は雄々しく、その眼光は鋭く前を見据えていますね。
獅子の輪郭は太く力強い線で画かれているのに対し、鍾馗の肉体や頭髪は柔らかい線で画かれています。
これによって鍾馗は神性を持ちながらも、人間らしい姿態を持つことができました。
構図は非常に大胆で、金地に疾走感のある獅子と鍾馗のみを画くというものは、琳派に通じる哲学を感じます。
この作品が誰かの依頼であったのか、酔狂で画いたのか、はたまた荒れた天保の世を嘆いたのか、理由はわかりませんでした。
しかしこの画に向き合うとき、北斎の精神は獅子と鍾馗に確かに重なっていたでしょう。
この作品は出光美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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