“明治生まれの江戸情緒” 川瀬 巴水 作『大阪 道とん堀の朝』を鑑賞する

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作品概要
- 作品名 道とん堀の朝
- 画家 川瀬 巴水(1883年 ~ 1957年)
- 制作時期 大正10年ごろ
巴水について
概要
川瀬 巴水(かわせ はすい)は明治末期から昭和にかけて活躍した浮世絵師であり、
明治初期から始まった西洋画の隆盛によって衰退していた浮世絵の再興に尽力しました。
彼が日本各地を旅する中で描いた風景版画は『新装画』と呼ばれ、高い評価を得ました。
また、巴水の名は国内よりもむしろ国外でよく耳にするそうで、北斎や広重に並ぶ人気があるようです。
生涯
新しい時代の中で
川瀬 巴水(本名は文治郎)は明治16年に東京の港区に生まれます。
当時の日本は自由民権運動も終わっており、江戸の風情はすっかり過去のものになっていました。
同年には鹿鳴館が開館し、首都東京はいよいよ文明開化の本流に乗らんとしています。
職人の父親のもとに生まれた巴水は、その時代を逆行するかのように日本画に傾倒し、14歳から約10年間日本画家のもとで修業を積みました。
25歳の時、1度は父親の跡を継いだものの、夢を諦めることができず鏑木清方に師事を請います。
しかしながらこれは日本画家としてはあまりにも遅い入門であり、清方もまたこれに見かねて巴水を洋画の道に進ませます。
巴水はこれを受け、黒田清輝を中心に発足された白馬会に入り、イチから洋画を学ぶことにしました。
当然ですがこの時代の日本では、洋画は非常に新しい文化であり、日本における作品は最も古いものですら江戸末期~明治初期のものが挙げられるそうです。
清方は目覚ましい速度で発展していく日本の新しい芸術文化に、巴水の画家としての居場所を見たのでしょう。
しかし、過渡的に変化していく日本西洋画界に、日本画を志望していた巴水が付いて行けるはずはなく、結局は2年で挫折し再び日本画家たる鏑木 清方の門をたたきました。
清方もまた今度は彼の入門を許可し、2年の修行の末に画号『巴水』を与えています。
日本画家としての矜持
35歳に至るまでの巴水は、師匠と同じく美人画の技法を追求する画師でした。
しかしその美人画での限界を感じた巴水は、スランプの中で自身の芸術を模索します。
そして行き着いた先が、同門の伊藤深水から教わった浮世絵版画でした。
前述の通り、西洋画が恐ろしい速度で流行を席巻し始めていた当時の日本では、浮世絵はおろか日本画そのものが時代遅れの遺物と認識され始めていました。
しかしその中にあって巴水は日本画家としての表現を模索し、そして一つの解を得ます。
ーー原風景の再現ーー
それは幼い頃に見た景色を、風景画として浮世絵に残すことでした。
折しも明治の末ごろには、伝統的な浮世絵の存続をかけた取り組みが行われ始めており、さらにはジャポニスムの影響を受けた外国人画師たちの協力で、その取り組みが版画の新たな境地という成果へ変わり始めていました。
新装画
彼らが作り上げた新たな浮世絵は、のちに“新装画”と呼ばれます。
それは写実性、西洋顔料の検討、日本画的肉筆感の再現、西洋画のテクニックの導入などあらゆる可能性の模索の末に生まれた文化であり、浮世絵師たちの苦悩の末にエネルギーが結晶化したものと言えましょう。
巴水の場合は、作品に自らの心象風景を重ね、作品に詩情的なイメージを与えています。
ある種の印象主義ともとれる試みは日本ではなく海外で大きくヒットし、幻想的な美を求めて多くのコレクターがこれらを欲したそうです。
69歳の時に自身の作品が無形文化財の技術的参考品に認定され、川瀬 巴水は日本の宝となりましたが、その5年後に肺癌でその生涯を閉じました。
遅咲きの日本画家は、苦心の末に自身の理想の情景を表現できたのでしょう。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
川瀬 巴水 作『大阪 道とん堀の朝』です。
大正10年に刊行された『旅みやげ第二集』に収録された作品の一つですね。
旅行の中で大阪を訪れた際に、旅館の部屋から見た景色を画いたものでしょうか。
全体的な色調として採用されている透き通るような青は、静かな湖面だけでなく朝の空気まで彩っていますね。
また建物の輪郭をあえて雑な線で表現することで、この景色が微かな靄を纏いながらも思い出の中にしっかり焼き付いていることがわかります。
西洋画のように細かな色の使い分けや筆致が施されているわけではありませんが、それでも印象主義に通じるような精神性がこの画からは伝わってきますね。
生まれたその瞬間から、ノスタルジーを纏っていたとさえ思える作品でした。
この作品は国立国会図書館に所蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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