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“知名度と詳細が乖離した画家” ブリューゲル 作『バベルの塔』を鑑賞する

宗教画

作品概要

  • 作品名 バベルの塔
  • 画家 ピーテル・ブリューゲル(1527年?~1569年)
  • 制作時期 1563年ごろ

ブリューゲルについて

概要

ピーテル・ブリューゲルは16世紀に活躍した、オランダの画家です。

日本はおろか、世界的に有名な宗教画を数多く残したにもかかわらず、その生涯を記したものはほとんど現存していません。

同名の息子もいますが、本稿では父親のブリューゲルを解説します。

生涯

初期の記録

ピーテル・ブリューゲルの生涯を示す数少ない資料の一つに、伝記作家 カレル・ファン=マンデルの記した伝記があります。

それによれば、ブリューゲルはオランダのブレダにて生まれ、1551年には同国の聖ルカ組合に加入したそうです。

 

聖ルカ組合とは、中世諸国で盛んに活動が行われた画家のギルドの一つです。

聖ルカ組合は、オランダ芸術界において非常に強い権力を持っていたため、芸術家たちはこのギルド無しで名を上げることは難しかったと言われています。

この組合は加入において年齢制限が設けられていたため、この時ブリューゲルは21~26歳であったと推測されています。

修行旅行

20代半ばのブリューゲルは、ギルド加入と同時に、イタリアに旅行をしています。

その行程は3年に及び、作成した絵画から、ローマだけでなくメッシーナやシチリア島を訪ねたこともわかっています。

 

ローマでは、キリスト教に関する多くの知識に触れたと考えられ、本稿で紹介する作品を始めとした宗教画の傑作も、この度の中で生まれています。

オランダへの帰路では、アルプス山脈を経由したそうです。

帰国後は、出版業者らのつてを頼りに、版画の出版などにいそしみました。

結婚、転居、死没

恐らく30代の半ばごろ、ブリューゲルは10歳以上年の若いマリアと結婚し、またベルギーへ引っ越しました。

 

しかし、ブリューゲルが結婚して4年後のベルギーにて、スペイン王フェリペ2世によるキリスト教改派への弾圧が始まります。

彼の宗教的思想は中立的で、フェリペ2世の側近と親しかった一方で、改派的哲学にも傾倒していたようです。

そしてこの動乱がいかに作用したのかはわかりませんが、弾圧開始の2年後にブリューゲルは死去しています。

40歳前後という、非常に短い生涯でした。

鑑賞

 

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あらためて作品を見てみましょう。

ピーテル・ブリューゲル 作『バベルの塔』です。

 

バベルの塔は旧約聖書の『創世記』に登場する巨大な建造物です。

そのモデルは約2600年前に建設された、メソポタミア地方のジッグラトと言われています。

 

創世記の記述によると、

古代、全ての地は同じ言語を用いていた。 時代の王ニムロドは民を束ね、洪水を起こした神に復讐するために天高い塔を建設することにしたが、 神はこの行いを怒り、愚かな人間たちの言葉を散らばらせ、人々に混乱を与えた。 (創世記とユダヤ古代史を、管理人の解釈のもと省略してあらわしています。)

 

とあります。

ここで言う洪水とは“ノアの箱舟”のエピソードを表しており、ニムロドはノアの孫にあたると言われています。

 

作品を見ますと、手前の丘にニムロド王が訪れていることがわかりますね。

また塔の各部で、クレーンや足場などの工学的な技術が見受けられます。

すなわちこの神話は、レンガやクレーンといった、非自然物・科学技術に頼りだした人間への宗教的啓蒙も含まれているのですね。

 

ブリューゲルのバベルの塔は、コロッセオに代表されるローマ帝国の建造物に寄せて描かれています。

ローマ帝国もまた、永遠の都と言われていながら、最終的にはオスマン帝国によって滅ぼされました。

ブリューゲルにとって、この2つは諸行無常の観点から非常に似通っていました。

 

また、当時のカトリックは多くの儀式や書物をラテン語に統一しており、オランダでは多くの改派(プロテスタント)がこれに反発し、6か国語に翻訳された聖書の発行を行いました。

ブリューゲルはオランダ国民としても、この運動に参画する意味でこの作品を描いたのかもしれません。

 

まさに、中立的立場を貫いたブリューゲルらしい作品と言えましょう。

 

この彫刻は、ウィーンの美術史美術館に収められています。(外部リンクに接続します。)

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