“画家の見出す哲学” ゴーギャン 作『未開の物語』を鑑賞する
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作品概要
- 作品名 未開の物語
- 画家 ポール・ゴーギャン(1848年~1903年)
- 制作時期 1902年
ゴーギャンについて
概要
ポール・ゴーギャンは19世紀に活躍した、フランスのポスト印象派画家です。
証券会社員だったゴーギャンが絵画制作に出会ったのは、彼が25歳の時でした。
ゴーギャンはカミーユ・ピサロと出会い、印象派画家として生計を立てんとしますがその道のりは苦難に満ちます。
また、同じくポスト印象派画家であったゴッホと共同で生活していた時期もあります。
生涯
作品背景
タヒチにて、自身の画家人生の集大成となる『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を描き上げたゴーギャンは、自身の創作活動の舞台をマルキーズ諸島へ移します。
ゴーギャンはかねてよりこの島を訪れたいと考えていました。恐らく、タヒチよりもさらに原始的な生活風景に焦がれたからでしょう。
しかし実際の風景は、その理想とやや離れたものでした。
マルキーズ諸島は、ポリネシアの中では比較的早く西欧化した島々であり、古来より続いていた文化は廃れ始めていました。
また、西洋人が持ち込んだ病原菌の影響で島の人口は最盛期の2.5%以下にまで落ち込んでいたそうです。
ゴーギャンはやや辺境の島であったヒバ・オア島に移住し、のちに”快楽の館”と名付ける家を建て創作活動に従事します。
快楽の館にはゴーギャンが集めた淫猥な写真が飾られており、その為に地元の教会からの非難を浴びました。
またゴーギャン自身も教会を批判したり、自分が囲った少女たちの通学を禁止させたりと独善的な生活を送ったそうです。
ただし、少女たちもまたゴーギャンを愛しており、さらに病状の悪化したゴーギャンの世話をするためにもその生活を受け入れていたと言われています。
ヒバ・オア島ではそれまでの作風を否定するかのように、人物や静物の描写にいそしんだそうです。
しかしながらそれによって生まれたのは、それまでの作品をさらに深く進化させたものたちでした。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
ポール・ゴーギャン作『未開の物語』です。
原始的な衣装の男女と、現代的な衣装を纏った男性の対比が描かれています。
他のゴーギャンの作品同様にベースカラーは深い青が用いられているため、絵全体が”静”の印象を持っていますね。
作品の題名とは異なり、この島々は既に”未開の状態”ではありませんでした。
しかしながらこのような題名と作品になったことには、ゴーギャン自身の理想が込められたからではないでしょうか。
それは文明の発達した現代で決して見つかることのないある種の理想郷であり、そもそもそれを理想と思う人自体が少ないようなものでしょう。
別記事に記したように、ゴーギャンは人間のありのままが曝け出された原始的な風景こそが理想であると考えており、それを象徴するような一対の男女と文明の象徴である司教風の男性を隣り合わせることで、一種の皮肉を表現しようとしたのだと考えます。
ヒバ・オア島での習作の賜物か、タヒチ時代の作品と比べて人物像はいくぶん写実性や立体感を帯びていますね。
それにより人物の肉体はより美しさを増しており、また陰影が画家の深い精神性を表しているように見えます。
この作品が完成した翌年にゴーギャンはこの世を去りました。
もしもあと5年長く生きていたなら、彼の哲学はより強いかたちで作品に現れたかもしれません。
この作品はドイツのフォルクヴァンク美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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