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“ジャポニスムの教科書” -歌川 広重作『大橋あたけの夕立』を鑑賞する-

浮世絵

作品概要

  • 作品名 大橋あたけの夕立
  • 画家 歌川 広重(1797年~1858年)
  • 制作時期 1857年(安政期)

歌川広重について

概要

歌川広重は江戸後期から幕末にかけて活躍した浮世絵師です。

彼の描いた浮世絵はヨーロッパに衝撃を与え、その色は“ヒロシゲブルー”と呼ばれました。

また広重の描いた画集『東海道五十三次』は江戸庶民の娯楽として大流行するとともに、現代では当時の風景を調査するうえで大変貴重な資料となっています。

非常に仕事熱心であったために彼が生涯に描いた作品は2万を超えるそうです。

生涯

幼い火消し

歌川広重(本名 安藤広重)は寛政9年に江戸の火消し同心の長男に生まれました。

同心とは現代でいう公務員にあたり、なかでも火消しは消防として勤める職業です。

広重の両親は彼が13歳の時に相次いで亡くなりました。

そのため歌川広重は13歳で父の職を継ぎ火消しとなります。

絵師入門

幼いころから絵心に富んでいた広重は15歳の時に歌川豊広に入門します。火消しと絵師の二足の草鞋を履いたのですね。

本職は火消しであるので、浮世絵は趣味ということになるのでしょうか。

本項で紹介する作品からもわかるように歌川広重には風景画のイメージが強いですが、この他にも役者絵・美人画・春画・挿絵・動物画と多彩なジャンルを描いています。

本格的に絵師へ

35歳の時に広重は火消しを引退し画業に専念します。

そして翌年から『東海道五十三次』の制作に着手します。

この作品はこれまでの浮世絵と異なり、遠近法や自然描写が効果的に使われ、風景画として絶大な人気を誇りました。

化政文化

江戸時代は初期のころから、江戸から東海道を通って伊勢神宮へ参る旅行が流行っていました。

加えてこの頃には江戸の生活水準が向上し、また町人文化の成熟から娯楽を求める人が多く生まれます。

化政文化と呼ばれたこの時代に歌川広重の作品はクリティカルヒットしました。

晩年

広重の制作意欲はその後も衰えず、甲州での旅をもとに『富士三十六景』を画き、地元江戸では『江戸名所百景』を残します。

本項で紹介する『大橋あたけの夕立』も江戸名所百景のうちの一つですね。

しかしそのシリーズの完成は叶わず、62歳で広重は病死しました。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

歌川広重 作『江戸名所百景 -大橋あたけの夕立-』です。

 

この作品の特筆すべき点はその構図と表現方法です。

まるで鳥の目線から見たような俯瞰風景は当時の浮世絵界に衝撃を与えたでしょう。

また直接雨を画き、全体をぼかすように画くことによって夕立の激しさと水煙を表現していますね。

オランダのフィンセント・ファン・ゴッホはこの絵に驚嘆し模写しました。

 

なお、広重が用いた絵の具はヨーロッパから輸入されたもので“ヒロシゲブルー”と呼ばれました。

彼の作品は葛飾北斎のものとともにジャポニスムの草分けになったそうです。

 

この作品はニューヨークのブルックリン美術館に所蔵されています。

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