“万能の天才” 後編 レオナルド・ダ・ヴィンチ 作『最後の晩餐』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 最後の晩餐
- 画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)
- 制作時期 1496年ごろ
ダ・ヴィンチについて
概要
レオナルド・ダ・ヴィンチは15~16世紀のイタリアを中心に活動した芸術家です。
ルネサンス期の研究と発展の象徴的な人物で、あらゆる学問に秀でた人物でした。
彼が論文を残した分野は現代の理科的な学問のほぼすべてを網羅しており、また音楽や料理などにもその知的探求心を向けたことから“万能の天才”と呼ばれました。
ただし、その論文が日の目を浴びるのは19世紀になってからであり、レオナルド・ダ・ヴィンチの名が知れ渡ったのは20世紀ごろです。
生涯
晩年
61歳から亡くなるまでの間はヴァチカンで過ごしました。
ヴァチカンではミケランジェロとラファエロが共同で活動していましたが、レオナルド・ダ・ヴィンチは彼らとあまり接点を持つことはありませんでした。
そのそもにレオナルドとミケランジェロの間には20歳以上の差があり、ラファエロに至っては30歳差があります。
彼らが円熟期を迎えた頃、レオナルドは既に晩年に差し掛かり始めていたのですね。
レオナルドは王族や教皇の援助のもと、自らと弟子たちとで制作を続けます。
16世紀初頭のフランス王フランソワ1世は、生涯でレオナルドに2~3億円(現在の価値に換算)の投資を行ったそうです。
フランソワ1世がレオナルドと過ごした時間は3年間と短かったものの、これだけの投資が行われました。相当に惚れ込んでいたのですね。
ただしこの期間に描かれた絵画作品はほぼありません。
『モナ・リザ』を含むレオナルド・ダ・ヴィンチ絵画の傑作たちはフィレンツェの時代に描かれています。
かわりにこの期間には彫刻作品を制作したり、後進の育成に励みました。
逝去
最晩年のレオナルドはフランソワ1世に与えられたクロ・リュセ城で過ごしています。
これはフランソワ1世が過ごしていたアンボワーズ城と地下でつながっており、ここでも彼のレオナルドに対する執心が伝わってきます。
レオナルドは1519年にクロ・リュセ城で息を引き取りました。
遺言により葬儀は60人の貧者の参列とともに行われました。問弔いは懇ろに行われ、遺品や制作した作品たちは弟子や兄弟たちに分割相続されます。
遺体はアンボワーズ城内の礼拝堂に埋葬されますが、フランソワ1世は死後20年経っても彼のことを思い続けたそうです。
彼の中でレオナルドは神格化されたのですね。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチ 作 『最後の晩餐』です。
最後の晩餐はレオナルドが40代半ばの頃に描いた作品です。
主題はキリストが処刑される前夜に行った12人の使徒との晩餐会であり、ここでキリストは裏切り者の存在を予言します。
なお、聖書の記述によればキリストは死後復活するとあり、さらに最後の審判ではすべての死者が復活しキリストによって天国と地獄のどちらに行くのかを決められるとあります。
中央にキリストがおり、そこから向かって左となりにヨハネがいます。
ダン・ブラウン著 “ダ・ヴィンチ・コード”ではその顔立ちや装いからマグダラのマリアとみなされ、さらに懐妊している可能性を示唆されていましたが、現在の研究では否定されています。
左から2番目の人物が裏切り者であるユダです。
作品としての魅力は色彩や題材よりも技術の高さと言えるでしょう。
この作品はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂に描かれています。
通常このような絵画は漆喰の上に描くフレスコ画の技法を用いますが、レオナルドはこの手法を否定し、写実的な表現のためにテンペラ画の技法で制作しました。
また幾何学や測量などを深く理解していたレオナルドは、完璧な遠近法をこの作品の中に再現します。
結果この作品が描かれた食堂では、すぐ隣にイエスとその弟子たちの食卓が並んでおり、さらにその向こうにはミラノの空が広がっているような錯覚を覚えるそうです。
主とともに食卓を囲む感動、さらに空間拡大への感動をレオナルドは両立したのですね。
ただしテンペラ画の弊害により、この作品は完成後わずか20年で顔料の劣化が始まったそうです。
現在に至るまでにこの作品が保存されているのは、500年間の断続的な修復作業の繰り返しや戦火から守らんとする修道女たちの成果であり、むしろこの過程と結果こそがある種の奇跡と言えるでしょう。
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