“日本が誇る才女” 野口 小蘋 作『蘭亭曲水図屏風』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 蘭亭曲水図屏風
- 画家 野口 小蘋(1847年~1917年)
- 制作時期 1900年(明治30年)ごろ
小蘋について
概要
野口 小蘋(のぐち しょうひん)は明治~大正時代に活躍した女流日本画家・南画家です。
幼い頃から中国の学問の3つの柱である「詩・書・画」をたしなみ、成長する中で日本画や南画(中国画)を学び技法を獲得しました。
また当代の一流文化人たちと多く交流し、見識を広めたそうです。
その技術の高さをして、奥原 晴湖とともに女流画家の双璧と呼ばれました。
生涯
子供時代
野口 小蘋は1847年(弘化 4年)に大阪の難波に生まれました。
父親は徳島出身の漢方医であり、長女である小蘋のために彼女を四条派画家のもとへ入門させます。
小蘋は幼い頃から学問に秀でた才女だったそうで、父親としては才能を埋もれさせたくはなかったのでしょう。
16歳の時には北陸に修行の旅に出かけていますが、この度の中で同行していた父親が急逝しました。
このとき小蘋は、母親を養うために自身の作品を売ったそうです。
南画との出会い
20歳になると京都へ上り、西国随一の南画家と呼ばれた日根 対山に師事し山水画を学びました。
ここでは名士や文人たちと交流を深め、また浮世絵などにも触れています。
生来のキャパシティが高い小蘋は、ふれた文化や知識を遍く吸収し自らの世界観を広げました。
4年間の修業を終えると上京し、独立絵師として活動を始めました。
初期の仕事は人物画が多かったですが、1873年には皇后陛下に花卉図を献上しています。
結婚
31の時に、対山のもとで同門のだった野口 正章と結婚し翌年に娘を授かりました。なお、この娘もまた南画家になります。
夫の家は滋賀県で酒蔵を営んでおり、義父は多くの文化人と交流を持つ名士でした。
これにより小蘋の人脈や知見はさらに広がり、結婚後に潜めるであろうと思われた画才はさらに大きく成長します。
結婚5年目に夫の事業が失敗し一家は上京することとなりますが、衰退していた日本画を復興し続けている小蘋は評価を受け続け、その名は関東にも知れ渡りました。
皇族との接点
40歳を越えるころ、皇太后に作品を献上したことをきっかけに華族や皇族のために制作をする機会が増えます。
そして42歳の時に華族女学校(現在の学習院女子中)の教員に任命されることで、小蘋は皇室御用達の絵師とも言える栄誉を授かりました。
以降は内親王の側近や女性初の帝室技芸員(現在の人間国宝)を拝命し、71歳でその生涯を閉じます。
彼女は常に、生まれ持った才能を育み続ける環境に恵まれていました。
それは衰退していた日本画・南画のために神様が与えてくれたものなのかもしれません。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
野口 小蘋 作『蘭亭曲水図屏風』です。
約1300年前の中国で行われた清めのお祭りの風景を描いた作品ですね。
この日、政治家であり書家でもあった王義之(おうぎし)は、仲間たちを読んでささやかな宴を催しました。
宴は水のせせらぎの聞こえる川辺で、詩や管弦を交えて優雅に行われたそうです。
作品の様式は中国古来のものに忠実になぞられており、霞みがかったような風景とほのかに輝いて見える山の青が印象的ですね。
これは日本の水墨画の原点となった文化であり、彩色が施されていながら“禅”の精神を宿しているという特徴があります。
明治時代は当然のこと、そも日本はこの技術を持つ人物が稀有な存在であったため、華族を始めとした文化人たちに小蘋が大切にされた理由は頷けますね。
彼女は50代にしてこの作品を完成させていますが、裏を返すと小蘋はその時点で文人並みの技術と知識を有していたということです。
本来はさらに十年以上の修行の末に行き着く境地にこの時点で立っていたということが、彼女の人格・探求心・育んできた人間関係を表していますね。
この作品はシカゴ美術館に所蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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