“中国の美” -仇英作『桃花源図』を鑑賞する-
目次
作品概要
- 作品名 桃花源図
- 画家 仇英(1509年~1551年)
- 制作時期 明代(16世紀)
仇英について
概要
仇英は中国明代に活躍した工筆画家です。
古い中国画たちから多くの技術を吸収し、さらにそれを複合して新しい中国画の時代を作りました。
墨絵でありながら非常に写実的で、その影響は経済を動かすほどであったそうです。
現存している作品数は少ないながら、世界中で評価されている画家です。
生涯
仇英は16世紀初頭の中国(当時の国名は明)に生まれました。
彼の生きた時代の中国は混乱を極めます。
当時の明の皇帝は弘治帝から皇位を譲り受けた正徳帝でした。
弘治帝は荒れた国を立て直したものの、正徳帝は放蕩さと政治への無関心さから国費を浪費しさらにそれを重税で補います。
直接ではないものの、その影響は後世に及び明は滅びました。
さて、仇英はそのような明の江蘇省(現在の上海近く)の下級民の家系に生まれます。
はじめは漆職人として修業をしていましたが、のちに周臣の弟子となり中国画を学びました。
仇英の学習法は模倣です。
彼は多くの中国古美術を真似て、そこからその技法を習得しました。
とりわけ素晴らしかったことはその精度で、彼の作る模造品は本物と見分けがつかなかったそうです。
見た目だけでなく、作者の感性や考え方すらトレースしたからこそこのようなものたちが作れたのでしょう。
そして仇英は中国画壇にデビューし、院派と呼ばれる流派に属します。
仇英の描く工筆画は鮮やかで独創性が強く、多くのパトロンに支持されました。
パトロンたちは仇英にさらなる学習の機会を与え、仇英の芸術家としての幅は広がり続けます。
さらに明代の文化人との交流を通じて教養を高めた仇英は、明代芸術家の四天王に数えられるようになりました。
晩年は明自体の経済が回復したこともあり、彼の描いた画は鑑賞のみならず手本としても重用されるようになります。
美人風俗画などはとりわけ評価が高く、のちに続く清の時代でも重宝されたようですね。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
仇英 作『桃花源図』です。
日本では桃源郷という呼び名の方がなじみ深いのではないでしょうか。
古代中国の文学者 陶淵明が説いたこの世の理想郷であり、目的なくさまようものが偶然にたどり着く場所とされています。
そこには仙人が住まい、道教における悟りを体感できるそうです。
工筆画特有の鮮やかでありつつも静かな美しさが体現されていますね。
河ではなく山々を青く描いているため、このような印象を受けるのでしょう。
さらにワンポイントに描かれた中央の赤い着物の童子がなんとも愛らしいです。
こちらの画はアメリカのシカゴ美術館に所蔵されています。
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