“精神の彼岸でみた光景” 中編 -ゴッホ作『星月夜』を鑑賞する-
目次
作品概要
- 作品名 星月夜
- 画家 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年~1890年)
- 制作時期 19世紀末
ゴッホについて
概要
フィンセント・ファン・ゴッホは19世紀オランダの印象派画家です。
ジャポニスムに影響を受けた画家の一人であり、印象派を語る上では外せない画家ですね。
彼の短い生涯は苦難に満ちており、作品の多くはゴッホが字雑するまでの療養中に描かれたものが多いです。
そして彼の活動や作品は後に続くフォービズム(野獣派)などに多大な影響を与えました。
生涯
バルビゾン派と印象派の間で
ゴッホの苦悩は続きます。
父の転勤に伴いオランダ内の別の村に引っ越した彼は、そこで働く機織り職人たちを描きました。
しかしゴッホの描く絵画は暗い印象を与えるものが多く、弟のテオからしきりに印象派(印象派は明るい色調のものが多い)を勧められます。
生来、人とのかかわりが苦手で、かつ精神的に病んでいたゴッホには心から印象派を描くことは不可能に近かったのでしょう。
しかし引っ越しの2年後に訪れた国立博物館で、レンブラントを始めとしたオランダの巨匠の作品を見たときから、少しずつ彼の中に変化が起こるようになります。
この体験からゴッホは、絵とは感情の昂ぶりのまま書き上げるものであるという結論を得ます。
些細なきっかけかもしれませんが芸術家、それどころか印象派の画家には必須の性質なのではないでしょうか。
浮世絵との出会い
30代のころにゴッホはゴンクールの小説から浮世絵の存在を知ります。
今にしてみればこの瞬間が彼の人生の転換点だったでしょうね。
当時、日本ではポスター程度の価値でしかなかった浮世絵が、ジャポニスムの普及したヨーロッパでは高価な絵画になりつつありました。
それでもゴッホは足繫く美術商に通い、浮世絵を購入しては自宅に飾り恍惚のまなざしで見つめていました。
またこのころはパリで弟と同居しつつ、多くの新進気鋭の画家仲間と語り合っていたそうです。
その交流の場となった画材屋の店主であるタンギーを、後にゴッホは肖像画にしています。
アルルでの制作活動
35歳になると最も親交のあったゴーギャンとともにアルルで共同生活を送るようになります。
パリは芸術に限らずあらゆる最先端が集う都であったのに対し、アルルはのどかな田舎でした。
ここはゴッホにとって精神的にも適した場所だったのでしょう。“赤い葡萄畑”をはじめとした印象派絵画が制作されました。
しかし彼の精神は常に過渡的な変化を続けます。
同年の12月にゴッホは自らの耳を切り落とし、病院に運び込まれました。
療養生活
知らせを聞いた弟テオドルスはすぐさまアルルの病院へ向かいました。
幸い主治医の治療により、感染症を含む生死に関わる問題は回避されましたが、自傷衝動は収まらずゴッホは監禁されます。
年が明けるころには多少容体が落ち着きましたが、ゴッホは既に重度の統合失調状態にありました。
しかしゴッホの精神状態に反比例するように、彼の作品は成熟していきます。
このころゴッホのアトリエ(通称 黄色い家)に赴いたある画家はパリ時代の作品からの進化に驚いたそうです。
春が終わるころにゴッホはアルルから数十km離れた村の修道院に転院します。
病室の一画を制作スペースとして許可されたゴッホは、すがるようにキャンバスに向かいました。
この頃は人物ではなく、植物や動物を始めとした自然物に美を感じるようになります。
そしてここで“星月夜”を描きました。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
フィンセント・ファン・ゴッホ作『星月夜』です。
この作品は油彩で描かれています。
朝への希望を孕んだ夜空は明日への不安も含ませながらうねり、手前に一本の糸杉が悠然とそびえています。
ゴッホは自らの混沌とした感情を表しつつも、それに立ち向かわんとする意思を描きたかったのでしょうか。
本人をして「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と語っています。
画家フィンセント・ファン・ゴッホの一つの到達点ともいうべき作品ですね。
こちらの作品はニューヨーク近代美術館に所蔵されています。
目の前にすればゴッホの心境をそのままトレースできるでしょう。
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