“農民のための画家” 後編 -ミレー作『春』を鑑賞する-

風景画

作品概要

  • 作品名 春
  • 画家 ジャン=フランソワ・ミレー(1814年~1875年)
  • 制作時期 1870年ごろ

ミレーについて

概要

ジャン=フランソワ・ミレーは19世紀フランスの画家です。

駆け出しのころはルネサンスを熱心に勉強し肖像画や人物画、裸婦を中心に活動しましたが、フランス革命の時期に描いたものを契機に農民画を画きます。

その後、農村であるバルビゾンに移住すると精力的に制作を続けましたが、彼の描く農民たちはその悲惨さから政府への悪印象を煽るものも多かったそうです。

しかしながら晩年及び死後は彼の評価が高まり、今ではバルビゾン派の一人に数えられています。

生涯

フランスの変革

ナポレオン3世第二帝政を始めたころ、ミレーは37歳でした。

これ以前のフランスでは議会に権力が集中した状態が続いていたため、国民投票によって選ばれたナポレオン3世は民衆の英雄たる存在でした。

ゆえにミレーが描いた農民画は絶賛され、“大衆の威厳を描き出したもの”という賛辞まで得ました。

ただしこの6年後に出展した『落穂拾い』は、描かれた農婦たちがあまりにも貧しかったため、支配階級を中心に賛否が分かれました。

称賛と非難

40代半ばに差し掛かるころに良い画商と縁を結んだミレーは、ようやく経済的に安定します。(ちなみにこの頃ミレーには8人目の子供ができたそうです。)

そしてサロンにも精力的に出展しますが、彼の作品には好評と酷評が分かれ続けました。

例えば49歳の時に出展した『鍬に寄りかかる男』農民が重労働にあえいでいるとして批判を浴びましたが、その翌年に出展した『羊飼いの少女』最高峰の芸術と称賛されます。

ミレーの画家人生はほかの画家たちと比べても抜きん出て不安定ですね。しかしながら着実に有力な顧客を増やし続けたミレーは、53歳になる頃にパリ万博で1室を与えられるほどの巨匠となりました。

晩年

親友だったルソーがなくなると同時にミレーは頭痛に悩まされ、制作に支障をきたすまでになります。恐らく脳に重い病気を抱えたのでしょう。

体調の悪化もさることながらサロンへの出展をやめたため、ミレーの制作スピードは落ち着き始めます。

既に名声を得た彼には往年のようなハングリー精神がなかったのでしょう。

 

その後56歳の時に普仏戦争が勃発し、フランス第二帝政は終わりを迎えます。

ミレーは疎開を兼ねて一時的に生まれ故郷に戻り、そこで涙が溢れるのをグッと堪えたそうです。

2人目の妻ルメールを娶ってからというもの家族と疎遠だったミレーにとって、故郷グレヴィルはもはや他人の土地です。

しかしながら生家を目の当たりにした瞬間に思い出たちが蘇ったのでしょうね。

 

1875年 ジャン=フランソワ・ミレーは60歳でこの世を去りました。

自ら死期を悟ったのでしょう、この僅か2週間前に2人目の妻ルメールと結婚式を挙げています。

鑑賞

 

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あらためて作品を見てみましょう。

ジャン=フランソワ・ミレー作『春』です。

 

ミレーが着手した連作『四季』の中の一つであり、画家ジャン=フランソワ・ミレーの最高傑作ともいわれる作品です。

雨雲が去った農村に今まさに日が差し込み始め、喜ぶ鳥たちを祝福するかのように虹が輝いていますね。

中央の木の下には雨の止むのを待っていた男性がいます。

構図もさることながら陰影の表現方法が素晴らしく、キャンバスから生命の喜びが溢れるようです。

 

この作品に着手する前年に、親友ルソーが亡くなっています。

この絵画は親友の死を悼みつつも冥福を祈るために描かれたものかもしれませんね。

 

この作品はフランスのオルセー美術館に収蔵されています。

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