“愛の哲学” -クリムト作『接吻』を鑑賞する-
目次
作品概要
- 作品名 接吻
- 画家 グスタフ・クリムト(1862年~1918年)
- 制作時期 1908年
クリムトについて
概要
グスタフ・クリムトは19世紀から20世紀に活躍したオーストリアの画家です。
官能的なテーマや死体さえいとわずモデルにしたことから、反感を買うことも多かったですがその挑戦的なスタンスを評価する声も同様に多かったです。
またジャポニスム、つまり日本画の影響を受けた画家の一人でもあります。
生涯
クリムトは19世紀、帝政オーストリアの首都ウィーンに生まれました。
ウィーンと言えば音楽を始めとした芸術のメッカですね。
クリムトはこの町の彫版士のもとに生まれ、兄弟たちとともに芸術を学びました。
ちなみに兄弟たちは彫金士や彫刻士となりクリムトの作品を飾っています。
彼の作品の多くはクリムト家の作品でもあるわけですね。
社会問題へ
クリムトは非常に行動的な人物です。
20歳のころには兄弟たちとともに商会を設立し劇場の装飾などを中心に多くの依頼を受けるようになります。
ウィーンの芸術アカデミーの教授に推薦されたこともあるそうですよ。
しかしながら名声や影響力は批判というリスクと常に隣りあわせです。
32歳の時に依頼されたウィーン大学講堂の天井画にて、クリムトは3点の絵を制作しましたが、これらは依頼者の意向を無視しているとして大きな反感を買いました。
これらの絵は一度封印されたものの、再度世に出た際にも問題になり議会まで巻き込んだ社会問題に発展したそうです。
騒ぎの大きさに疲弊したクリムトはこの仕事を放棄し、すでに受け取っていた報酬を返還したそうです。
またこれらの絵は第二次世界大戦時にナチスによってすべて焼却され現存はしていません。
分離派設立
古典的かつ保守的な芸術界を否定したクリムトは、35歳の時に新たなる芸術を模索するために“ウィーン分離派”を設立します。
彼は総合芸術の表現に挑戦し続け、現代に続くモダンアートの創造に貢献しました。
開拓者はいつの世も虐げられるものなのでしょう。クリムトはこの時期にさらなる批判を浴び、“ベートーベンフリーズ”などの作品は最近まで所在不明だったそうです。
その後分離派内部でも方向性の相違が生まれ、43歳の時にクリムトは脱退しました。
晩年
新たなる芸術家連盟を結成したクリムトはウィーン工房からの依頼などを通して人物画や、裸婦画を描きます。
彼のアトリエには多くの愛人が出入りしていたそうですよ。
彼は生と死を通じて人間の持つ美しさを探求し、それを絵画で表現しようとしました。
しかし1918年に猛威を振るったスペイン風邪(現インフルエンザ)により、オーストリアの誇る巨匠は56歳の生涯を閉じました。
世論を巻き込んで批判を浴びた時期もありましたが、現在はヴェルヴェデーレ宮殿を始めとしたオーストリアの多くの施設で彼の作品が輝いています。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
グスタフ・クリムト作『接吻』です。
クリムトは作品を通じてファム・ファタールを追求しました。
ファム・ファタールとは“運命の女性”を意味し、同時に“魔性の女”を意味します。
しかしこの捉え方は男性の弱さを表したものとも見えるでしょう。
この作品で描かれているのはクリムトと愛人エミーリエと言われています。
分離派の活動の中で新世界の芸術表現を求めたクリムトは日本画の琳派に見られる金地を利用した画法に着目します。
クリムトは黄金に輝く世界でファム・ファタールに浸りたかったのでしょうか。
この作品からはエミーリエへの無上の愛情が伝わってくるとともに、芸術界を走り続けたクリムトの疲弊が伝わります。
天国で二人の平穏を願いたくなりますね。
この作品はヴェルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリーに収蔵されています。(外部リンクにアクセスします。)
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