“足るを知る者は富む” 葛飾 北斎 『煙管を吸う漁師図』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 煙管を吸う漁師図
- 画家 葛飾北斎(1760年~1849年)
- 制作時期 天保6年(1835年)ごろ
北斎について
概要
葛飾北斎は江戸時代の日本で活躍した浮世絵師です。
江戸の町人文化を象徴する芸術家の一人であり、日本の大衆文化の発展に大きく貢献しました。
彼が生涯に描いた作品は実に3万点を超えます。それはもはや狂人の域であり、それを自覚してか自らを“画狂人”と称しています。
生涯
作品背景
「江戸時代の人々は幸せだったのか」
こういった疑問が、時たま挙がることがありますが、その答えは「イエス」であると言われています。
しかしながら、車も無ければスマホも無い、現代の日本で享受されている娯楽のほとんどが存在しない中で、人々はどのように日々を営んでいたのでしょうか。
本項では江戸の町人を中心に、これを解説したいと思います。
まずは、同時代の諸外国と比較してみましょう。
19世紀初頭の世界において、最も栄華を誇ったのはフランスのパリですね。
マリーアントワネットの絶対王政を越え、その後の混乱をナポレオンが平定したパリは“世界都市”という文明の新たな境地を迎えました。
イギリスに端を発した産業革命は瞬く間にヨーロッパへ広がり、パリもまた馬車や鉄道が闊歩する便利な時代になります。
しかしながら、当時のパリは共和政と帝政の争いが常に燻ぶっていました。
また、フランスの覇道を作ろうとしたナポレオンの野望により、ヨーロッパ全体が戦火の絶えない地域となります。
市民たちは、いつ降りかかるかもわからない戦火に怯えたり、戦勝報告を高らかに伝える新聞に辟易したでしょう。
ではアジアはどうだったかと言えば、18世紀前後は、哀しき植民地時代の幕開けとなるタイミングでした。
真っ先に矛先が向いたのはインドでしょう
インドの豊富なスパイスは、雑菌を殺し、食料を長持ちさせる稀有な特性を持っています。
また、インド産の手織布 キャラコがヨーロッパで大流行し、多大な経済効果をもたらしました。
まずはイギリスが、次いでフランスがこの国に手を付け、インドは長い暗黒時代を迎えることとなります。
そしてインドを拠点に、清(当時の中国)を始めとしたアジア各国にも、帝国主義の魔の手が伸びました。
さて、これらを踏まえて当時の日本、特に江戸の町を想像してみますと、世界各国が抱える諸問題の多くと無縁だったことがわかります。
特に大きなファクターは“天下泰平の世”でしょうね。
徳川家康が創案した武家諸法度は、親藩・譜代・外様全ての大名を統制し、さらに続く将軍たちによる拡充でそれは盤石なものとなりました。
人々は戦乱という災禍から解き放たれ、文明や文化の発展に注力することができたのです。
また、幸か不幸か、鎖国政策による異国人との分断は、世界の文明との分断をも生みました。
一見すると、便利さを知ることができない不幸さを感じますが、人々は、知らないが故に与えられた娯楽だけを楽しむことができたのです。
そして江戸を中心にした化政文化が最盛期を迎える頃、町人たちは日々の仕事と、飯・人付き合い・大衆芸能の間で活き活きと生活したのですね。
遅くなりましたが、今回紹介するのはそれを象徴するかのような作品です。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
葛飾北斎作『煙管を吸う漁師図』です。
題名の通り、岩に腰かけて煙管(キセル)を吸う漁師が画かれています。
虚ろに空を眺める男の目じりはだらしなく垂れ、身なりも汚らしいですが、全身を弛緩させて心の底からリラックスしている様子が伝わってきますね。
背景は当然海ですが、うねるような波は太くも優しい色で画かれており、またその向こうの霞みがかった空が穏やかさをより演出しています。
その色は男の目に映る空を表しているのか、着物の澄んだ青色がなんとも清々しい
脇に放られた籠が本日の釣果を物語っていますが、これも一興とでも言うかのように男は泰然自若としています。
この頃の北斎の正式な画号は“画狂老人卍”ですが、右下の“自画賛”にわかるように、この作品は北斎自身を画いています。
「足るを知る」
この頃、齢70をとうに越えた北斎は、人々の営みと自然の美しさを遍く見た中で、精神的な幸福を獲得したのかもしれません。
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