“日本最後の文人” -富岡 鉄斎作『仙縁奇遇図』を鑑賞する-
目次
作品概要
- 作品名 仙縁奇遇図
- 画家 富岡 鉄斎(1837年~1924年)
- 制作時期 1919年
鉄斎について
概要
“万巻の書を読み、万里の道を往く” ー富岡鉄斎の座右の銘ー
富岡 鉄斎(とみおか てっさい)は明治-大正にかけて活躍した日本画家であり賢者です。
今では失われた“文人”と呼ばれる人種であり、画才のみならず多岐に秀でた賢人でした。
幼少の頃から学問に励み、画壇では中国の南宋画をベースにした南画を中心に活動しました。
生涯
京都の麒麟児
富岡鉄斎は天保7年(1837年)の京都に生まれました。
幼い頃は倫理学の一種である心学を学び、青年期は本居宣長が作り上げた国学や中国文学、儒学へと食指を伸ばします。
学問の師が尼僧であったため、子供ながら卓越した精神性を得ていたのですね。
画との出会い
24歳の時から鉄斎は長崎にて南画と大和絵を学び始め、その翌年からは画業で生計を立てます。
同時に私塾を開設し学問の布教にも尽力しました。
冒頭で述べた座右の銘“万巻の書を読み、万里の道を行く”の言葉通り、鉄斎は日本全国を行脚し文化や考え方を修めます。
37歳の時には北海道での旅をもとにアイヌの生活様式を描いています。
知的好奇心の向くままに
鉄斎は全国を旅する中で各地の名士と交流を持ちます。
例えば室町時代初期の皇族について調べるために明治8年(1875年)に山梨県を訪れていますが、この時には甲府で清酒や醤油を醸造していた野口家と知り合いました。
南画とは
南画とは中国の南宋画をルーツとする日本画です。
江戸時代中期に、紀州藩の武士が南宋画に日本風景画の技術を加えやわらかな情景を画く試みを行いました。他の文人たちはこれに続き、狩野派と拮抗するほどの勢力となったそうです。
時代が経ると南画は古いものとして衰退しますが、富岡鉄斎はこれを再興しさらに狩野派を始めとした種々の流派の技巧を混ぜることで新たな世界観を確立します。
文人としての矜持
文人とは高い教養を身に着け、文書でそれをまとめ上げ残す者を指します。
要求される学問は儒教・歴史学・詩・哲学と多岐に及び、また人格は高くなければなりません。
鉄斎は文人としての自らの考え方を絵の中に示し、また私塾で弟子たちに分け与えました。
ただし、あくまで自身の本質は文人であるとし、画業はそれを表すためのツールの一つでした。
鉄斎曰く
「意味のない絵は作らない」
「絵を見る時には文を読んでくれ」
とよく言っていたようです。
しかしながら幅広くかつ深い知識によって描かれた作品たちはどれも素晴らしいもので、中世日本画の技術の結晶と言えます。
富岡鉄斎は不世出の天才でした。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
富岡 鉄斎作『仙縁奇遇図』です。
恥ずかしながら私はこの絵に書かれた書を読むこともまた調べることもできませんでした。
ゆえにここでは自分の考察をもとに解説をします。
仙縁とは“仙人との縁”を意味します。
文人たちは、自然とはそれ自体が一つの書であり多くの教養を与えてくれる叡智の集合と考えました。
作中には断崖にて桃を採りにきた人たち(中央下)と、そこで出会ったと思われる2人の簡素な服を着た人物(左下)が描かれています。
そこは険しい山の奥に存在する仙境だったのでしょうか。
仏教の悟りと同じく、長い修練や死を感じるような状況に人は仙人の世界を垣間見ることがあるそうです。
この作品にはそのような情景が描かれているのではないでしょうか。
万能の天才富岡鉄斎といえど仙境に足を踏み入れたことはないと思います。
しかし鉄斎はその膨大な知識と経験から仙境を想像し、絵に表したのでしょう。
つくづく書を読むことができないことが悔やまれます。
この作品は京都国立近代美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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