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“新たな時代の創造” 前編 クロード・モネ作『印象 -日の出-』を鑑賞する

印象派

作品概要

  • 作品名 印象 -日の出-
  • 画家 クロード・モネ(1840年~1926年)
  • 制作時期 1872年ごろ

モネについて

概要

クロード・モネは19世紀のフランスの画家です。

当時軽んじられていた風景画の制作をの中で独自の技法を次々に編み出し、ルノワールやシスレーらとともに、のちに印象派と呼ばれる画風を築いた人物です。

現代の価値観と異なり存命中のモネの評価は終生高くありませんでしたが、彼は一貫して印象主義絵画を作り続けました。

また、浮世絵を始めとした日本文化の収集家、所謂ジャポニザンでもありました。

生涯

自然を愛する少年

クロード・モネは1840年にパリで生まれました。

ただし少年時代の大半は、パリから離れたル・アーブルで過ごしています。

モネはじっとしていることができない少年で、中学時代はたびたび学校を抜け出して外で遊んでいたようです。

教室の窓の外からは海と太陽が見えていたそうで、モネはそんな状況で授業を聞いていることに我慢ができなかったのでしょう。

 

また似顔絵(カリカチュア)が得意で、時には10フラン(1000円前後)で依頼されることもありました。

この活動が風景画家ブーダンの目に留まり、クロード・モネは本格的に絵画の世界に足を踏み入れます。

パリへ

モネはカリカチュアで稼いだ2000フランをもとに父親を説得し、パリの絵画学校(アカデミー)に進学します。

格式ばった勉強が嫌いだったモネは自由な校風のアカデミーを選び、のちに印象派の同志となるピサロと出会っています。

 

22歳の時にはとある画家のアトリエに入り、ルノワールやシスレー達とも知り合いました。

ただしこの画家はアカデミズムを重んじる古典主義的な画家であったため、モネは次第に師に対して不信感を抱きルノワールらとともに自分たちのグループを作るようになります。

その後モネは仲間たちとともにフォンテーヌブローへ赴き、自身の作風に大きな影響を与えるバルビゾン派の画家たちと出会いました。

モネは多くの巨匠と出会いましたが、なかでもジャン=フランソワ・ミレーに心酔したそうです。

メジャーデビュー

25歳になると、モネは自身の作品をサロンに出展し始めましたが、ここから彼の苦難の時代が始まりました。

始めの2年こそ入選したものの、その後10年に渡って彼の作品が大きな評価を得ることはありませんでした。ルノワールやシスレーも同様です。

 

その理由はやはり作風でしょう。

当時のフランス絵画界はアカデミズム絵画が主流であり、実際の人物や風景をいかに理想世界のものに近づけるかを追求していました。一種のプラトニズムとも言えますね。

このころのモネは身籠った恋人と暮らしていたため、サロンでの落選は生活を左右するものでした。実際、行き詰った果てに自殺未遂をしたこともあります。

モネは同志と生活資金をやりくりしながらこの時代を乗り切りました。

第1回印象派展

モネが30歳の頃、普仏戦争が勃発します。

戦後のフランスは第三共和政が始まり、芸術界の価値観も次第に変化していきました。

この頃の好景気のおかげで彼の作品は購入者が出始め、モネはアトリエを構えセーヌ川のほとりで制作に専念できるようになりました。

 

しかしながら依然としてサロンで落選が続いていたモネは、ついに同志たちとともに独自の展覧会を開くことを決めます(1867年にも同様の試みを企画しましたが、資金難で頓挫しています)。

モネ達は自身の作品の売り上げを出し合い、共同会社を設立します。

そして1874年に展覧会“第1回印象派展”を開催しました。

なおこの呼び名はモネ達がつけたものではなく、モネがこの展覧会に出展した『印象 -日の出-』にちなんでのちに呼ばれ始めたそうです。

この時点での評価

フランス画壇からの逆風の中開催したこの展覧会は当然のごとく社会からも批判されます。

当時の芸術基準からみると、彼らの作品は好き勝手に絵の具を塗り付けた落書きにしか見えなかったのでしょう。

設立した共同会社は間もなく潰れました。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

クロード・モネ作『印象 -日の出-』です。

 

モネが暮らしていたル・アーブルの港から見えた風景を描いたものですね。

朝日が昇り始めた港はまだ靄がかかっており、奥の水門やクレーンはシルエットだけ確認することができます。

特筆すべきはこの作品の醸し出す“柔らかさ”でしょう。

あくまでモネ自身の主観に基づいて描かれた作品であるため、モネ自身の精神を想像することもできるでしょう。

伝統から来る常識と戦い続けたモネには、いつも五里霧中の状態だったのでしょう。

それでも自身の信念を通し、光明を探していたのでしょう。

 

この作品を見た新聞記者が皮肉交じりに記事に“印象派絵画”と載せたことから、印象派という言葉は生まれました。

その印象派が現在ではここまで評価されているのはまさしく皮肉なものですね。

 

この作品はフランスのマルモッタン美術館に収蔵されています。

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