“乙女の恥じらい” 竹内 栖鳳 作『絵になる最初』を鑑賞する

日本画

作品概要

  • 作品名 秋興
  • 画家 竹内 栖鳳(1864年~1942年)
  • 制作時期 1913年(大正2年)ごろ

栖鳳について

概要

竹内 栖鳳(たけうち せいほう)は明治~昭和に活躍した日本画家です。

京都の四条派に師事し日本画を修めた栖鳳は、若いうちからその頭角を現し京都芸術界の筆頭として活動します。

また後進の育成に加え、西洋芸術を熱心に研究したことで日本画に革新をもたらしました。晩年は京都画壇を代表する大家へとなります。

生涯

大正時代の庶民文化について

明治~大正時代は日本人の文化が過渡的に変化した時期ですが、この項では“服装”に焦点を当ててみましょう。

 

言わずと知れていますが、江戸時代までほぼ全ての日本人は着物を着ていました。

しかし明治時代の文明開化に端を発した西洋文化の急速な広がりは、日本人の被服文化に多様性を与えます。

こちらは明治後期~大正時代に広く見られた女学生の制服です。

大正時代と言えば女性解放運動が強く叫ばれた時代ですので、女学生や職業婦人が急増しましたね。

女学生は着物の上から行灯袴をはいており、この文化は現在の成人式や卒業式に引き継がれています。

また明治の晩年に編み上げブーツが世に出ると、若い女性を中心に爆発的なブームとなりました。

男性は着物の上に外套を纏ったりと、大正時代は和洋折衷の詩情的な風情を帯びます。

画像は当時の東京の様子ですが、昔ながらの半纏を着ている人がいる一方で、マフラーやハットといった西洋風のおしゃれをしている人も見られますね。

 

 

そして何よりも時代を象徴するのは、“モガ(モダンガール)”や”モボ(モダンボーイ)”の登場ですね。

かつては一部の上級国民にしか許されていなかった高等教育が、中流以下の家庭に普及し始めると、若者を中心に個人の自由や尊厳の主張への意識が急速に向上し始めました。

そして古い習慣や世俗に囚われない新しい価値観を求め、西洋の髪型や服装(モダニズム)を積極的に吸収したのですね。

写真はサイレント映画の大スターだった筑波 雪子さんです。

10代の頃から銀幕で活躍し、和装も洋装も、そしてそれらの混合すらも見事に着こなした彼女は、当時の若い世代共通の憧れだったでしょう。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

竹内 栖鳳 作『絵になる最初』です。

 

場所は廓かどこかの座敷か、帯を解き”そのとき”に臨まんとする女性が画かれていますね。

なんという艶やかな表情でしょうか。顔の大半が手で隠れているはずなのに、彼女の心境や頬の上気がありありと伝わって来ます。

前述したように、大正時代は若い年代を中心にモダニズムへの傾倒が起き始めていましたが、何割かの保守的な人々は返って日本人らしい奥ゆかしさを尊重し守っていました。

こちらの女性は明らかに後者でしょうね。

こちらへ目を向けることは到底できず、視線は逃げるように遠くの畳へ伸ばすことしかできません。

 

着物の模様もまた彼女の心理状態を表しているかのように、闇の中に陰陽がまだらに飛び交っています。

しかして彼女の輪郭線は細く、また頭皮の境目はぼかして画かれていますね。

時代の隆盛の渦中にいた若年女性を見事に画いたこの作品は、国の重要文化財に指定されました。

 

この作品は京都市京セラ美術館に所蔵されています。(外部リンクに接続します。)

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