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“万能の天才” 中編 レオナルド・ダ・ヴィンチ 作『岩窟の聖母』を鑑賞する

宗教画

作品概要

  • 作品名 岩窟の聖母
  • 画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)
  • 制作時期 1474年ごろ

ダ・ヴィンチについて

概要

レオナルド・ダ・ヴィンチは15~16世紀のイタリアを中心に活動した芸術家です。

ルネサンス期の研究と発展の象徴的な人物で、あらゆる学問に秀でた人物でした。

 

彼が論文を残した分野は現代の理科的な学問のほぼすべてを網羅しており、また音楽や料理などにもその知的探求心を向けたことから“万能の天才”と呼ばれました。

ただし、その論文が日の目を浴びるのは19世紀になってからであり、レオナルド・ダ・ヴィンチの名が知れ渡ったのは20世紀ごろです。

生涯

同性愛疑惑

1476年にレオナルドは同性愛の疑惑で裁判にかけられました。

中世キリスト教ではオーラルセックスやマスターベーションを始めとした、子供を残す可能性のない性行為を否定的に捉えています。

1533年にはイングランドで公的に同性愛行為を禁止する法律が施行されました。

 

レオナルドは罪を免除されましたがヴェロッキオの工房を出たそうです。

独立

ヴェロッキオ及び父親もとから離れたレオナルドがどこで生活していたのかを記す記録は見つかっていません。

しかし制作活動は継続しており、1481年には礼拝堂からの絵画の依頼を途中まで行ったのちにミラノに向かったそうです。

 

その旅には自身が制作した弦楽器を携えています。これはフィレンツェと、敵対関係にあったミラノとの友好のために贈られました。

フィレンツェのメディチ家当主はミラノ公宛の書簡を添えており、その中にはレオナルドを褒め称える内容が記されていました。

当主はレオナルドの持つ音楽、絵画、科学の跳び抜けた才能を見抜いており、これを確認したミラノ公はレオナルドの入国及び活動をこころよく迎えたのでしょう。

ミラノでの活動

ミラノでは30~49歳まで活動しました。

本項で紹介する作品を含めたレオナルドの有名な作品の多くはこの時代に描かれています。『最後の晩餐』は映画“ダヴィンチコード”でおなじみですね。

レオナルドはこのころ、カテリーナという老婆を扶養していますが、これはレオナルドの生母であると言われています。しかし何度も結婚を繰り返した父親と共にいたレオナルドが、どのタイミングでいかにして母と再会したのかはわかりません。

カテリーナは農奴の娘であったため、父親が”所有”し続けていたのかもしれません。

戦争

1499年(レオナルド49歳)に第2次イタリア戦争が勃発します。

彼はミラノ公の信頼を得て数多くの仕事を引き受けていましたが、戦火を免れるために弟子や友人たちと同じくイタリアのヴェネツィアに避難しました。

戦時中はイタリアの技術者として従軍し、翌年にフィレンツェに戻りました。実に22年ぶりの帰郷と思われます。

 

その後はフィレンツェを拠点に活動していたようで、続けて軍の技術者としてイタリア各所で地図を描いたり、フィレンツェの芸術家のギルドに再加入したそうです。

父親はすでに他界していましたが兄弟たちとのわだかまりは解消できました。

レオナルドのなかに残っていたいくつかの悔恨の楔が消滅した時期となったでしょう。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 作 『岩窟の聖母』です。

 

描かれたのは聖母マリアと幼いキリストがエジプトへ逃れている時に、洗礼者ヨハネに出会った場面ですね。

マリアとキリストはユダヤ人の王様に狙われていたため逃避する必要があったそうです。

マリアが右手に抱いているのが幼いイエス・キリストで、画面右の少年がヨハネです。ヨハネにもたれているのは大天使ガブリエルです。

 

この作品は同じ主題・同じ構図で描かれており、ロンドンナショナルギャラリーに収蔵されている方はペストの流行時に祈りの対象になったそうです。

レオナルド・ダ・ヴィンチは人体のつくりはもちろん、あらゆる物理学、果ては哲学や神学を理解しています。

そのすべての知識を結集し、かつ敬虔なるキリスト教への信仰心をもって描かれた作品たちは、同じキリスト教徒たちの信仰の対象にすらなったということでしょう。

 

この作品はパリのルーヴル美術館に収蔵されています。

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