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“国と闘った画家” ジェリコー 作『メデューズ号の筏』を鑑賞する

風景画

作品概要

  • 作品名 メデューズ号の筏
  • 画家 テオドール・ジェリコ―(1791年 ~ 1825年)
  • 制作時期 1819年ごろ

ジェリコーについて

概要

テオドール・ジェリコーは19世紀にフランスで活動した画家です。

画家の感受性を尊重した“ロマン主義絵画”の先駆者とされており、勇壮な騎兵などを描きました。

なかでも話題を呼んだのが、本稿で紹介する『メデューズ号の筏』です。ジェリコーはこの作品により、多くの批判を浴びました。

生涯

画家への熱望

テオドール・ジェリコ―は1791年にフランス北部のルーアンに生まれました。

父親は弁護士であると同時に資産家でしたので、息子にも安定した将来を与えたいと願い1796年にパリに引っ越します。

しかしジェリコーには幼い頃から抱いていた絵画への熱意があり、そしてそれを持って17歳の時に画家へ弟子入りしました。父親の失望は計り知れなかったでしょうね。

 

師であったカルル・ヴェルネは風景画家であり、もとより宗教画や神話画に興味のなかったジェリコーも同じ道を志します。

それどころか生物としての“馬”にただならぬ関心を抱き、熱心にデッサンを行いました。これにより、ジェリコーは生涯にわたって馬の登場する風景画を好んで描きます。

巨匠たちに学ぶ

20の頃、カルル・ヴェルネのもとを去ったジェリコーは、次の師であるゲランのもとで修業しますが、新古典主義に重きを置くグランの方向性はジェリコーに合いませんでした。

そこで、ジェリコーはルーブル美術館に足繁く通い、過去の巨匠たちの作品を見て画術を見取りました。

 

そして翌年にサロンに出展した『突撃する近衛猟騎兵士官』にて、ジェリコーは金賞を獲得します。

描写の正確さは当然のこと、彼の描いた馬は躍動感に満ちていました。まさに彼の馬への愛情の賜物ですね。

イタリアで学ぶ

25歳からの2年間は、イタリアにてルネサンスを中心とした巨匠たちの作品を学びます。

なかでも、ミケランジェロの持つダイナミックな造形に感銘を受け、自身の馬や人物画に流用したそうです。

 

そして祖国に帰還後、本稿でも紹介する問題作、『メデューズ号の筏』を制作しました。

急逝

『メデューズ号の筏』を制作したのは彼が28歳の時でしたが、不運にもそのわずか5年後に彼の生涯は幕が閉じられます。

ジェリコーはもともと脊椎に結核を抱えていましたが、32歳の時の落馬が原因でこれが悪化します。そして治療も儚く、その命を閉じました。

生涯馬を愛したジェリコーらしい最後と言えるかもしれませんが、あまりにも早い幕引きに本人も悔恨の念を口にしていたそうです。

鑑賞

 

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あらためて作品を見てみましょう。

テオドール・ジェリコー 作『メデューズ号の筏(いかだ)』です。

 

サロンに出展する3年前に実際に起こった事件を題材にした、ジェリコーの代表作ですね。

1816年 セネガルに向かったフランスの軍艦メデューズ号は、アフリカのモーリタニア沖で座礁し難破しました。

船員と乗客は約400人も乗っており、救命ボートに到底収まりきらなかった遭難者たちは、即席で作った筏に乗り込みます。

 

しかし、筏を牽引していたロープが切れると彼らは再び海に放置され、わずか1日分の食糧と2日分の水で絶望の漂流生活を行いました。

生存者たちは互いに罵り合い、時には殺し合い、食べ合い、また弱者を海に放ったそうです。

まさに阿鼻叫喚の地獄ーー

この地獄はアルゴス号によって救出されるまで、13日間も続きました。

始め筏に乗っていた人数は150人近くいたそうですが、13日後に生存していたのはわずか15人だったそうです。

 

ジェリコーはこの作品を描くために、狂気に身をやつしました。

事件の報告書を見た彼は、正確さを追求するために病院近くにアトリエを構え、疫病や精神汚染の危険性の中で死体のスケッチや観察を続けたそうです。

また死後硬直に関する研究資料や、死体の腐敗についても深く学習しました。

そして筏を実物大で再現すると、そのスケッチに岸壁に打ちつける波をミックスすることによって、波に揉まれる筏を再現したのでした。

 

作品では、遥か遠い水平線上の船に向かって旗を振るものの、船がこちらに気付かず去っていく様子が描かれています。

すでに足元にはいくつもの死体が転がっており、生存者たちの絶望がありありと伝わってきますね。

助けを求め力の限り旗を振るもの、動かない体を無理に起こし命の限り腕を上げるもの、生を諦め忍び寄る死に悲観するもの

ルネサンスのような理想化された作品たちとは程遠い、顔を背けたくなるような現実をジェリコーは極限状態で描きました。

 

当時のフランスは、カリスマであったナポレオンから第2次復古王政へと覇権が移っており、この事件はフランス王政の無能さが招いたものとして世界的なニュースになります。

そのためジェリコーの作品には政府を中心に強い非難が集中し、また古典主義が強い芸術界からも(生々しい死体表現のため)非難が浴びせられました。

また、ルーブル美術館が作品の保護のために買い取りを名乗り出ますが、それは買い取りにかこつけた作品の軟禁でした。

買い取り代金すらジェリコーに支払われなかったために、ジェリコーは作品を美術館から回収しています。

 

ジェリコーは政界・芸術界の両者と相対し、ロンドンなどフランス政府の手の届かないところでこの作品を展示しました。

外国での展示という試みは成功し、高い写実性と画家の怒りや悲哀が混在したこの作品は、絵画の新しい可能性を開くものだとして高い評価を受けます。

即ち、ありのままの現実とそこに込められた人間の感情の描写に成功したのです。

 

これはキリスト教の倫理観との決別も意味し、以降の絵画は写実主義、印象主義と独自の価値観を形成します。

 

この作品はフランスのルーブル美術館に所蔵されています。(外部リンクに接続します。)

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