“世界に認められた虎画” 大橋 翠石 作『双虎図 1/2』を鑑賞する

日本画

作品概要

  • 作品名 双虎図
  • 画家 大橋 翠石(1865年~1945年)
  • 制作時期 1903年(明治36年)ごろ

翠石について

概要

大橋 翠石は明治~昭和期にかけて活躍した日本画家です。

翠石はを好んで題材にし、その迫力は海外からも称賛を受けるほどでした。

終生に渡り虎を画き続け、晩年は横山大観に並ぶ人気を得ましたが、日本画壇とは関わりを持たず孤高の絵師であり続けたそうです。

生涯

離別を越えて

大橋 翠石は1865年(慶応元年)に現在の岐阜県大垣市に生まれました。

父は紺屋の職人でしたが美術品をこよなく愛する人物だったそうで、翠石もまたその影響で15歳の時に大垣の日本画家に弟子入りします。

21歳の時には単身上京し、渡辺 小崋に師事しました。

 

翠石を大きく変えるターニングポイントは、彼が26歳の時に訪れました。岐阜県本巣を震源とした“濃尾地震”です。

推測された震度は7ですので、日本史上でも上位に入るレベルの強さですね。

加えて当時の日本は、インフラが脆弱かつ木造住宅が家屋の大半を占めていました。

翠石はこの地震で最愛の父親を亡くし、またその前年には母を病気により死別しています。

 

20代にして両親を亡くした翠石は、すがるように観音菩薩を画き地元大垣に寄贈したそうです。

そして京都の霊廟を訪れた際に購入した写真と、震災後の大垣で行われた見世物小屋が翠石の心を動かしました。

猛々しく、活力に満ちた『虎』です。

虎の翠石へ

取りつかれたように虎の模写を重ねた翠石は、31歳の時に京都で行われた内国勧業博覧会にて褒状を与えられ、『虎の翠石』の名を世に知らしめました。

さらにその5年後にはパリで行われた万博において、最高金賞の栄冠に輝きます。これは日本人でただ一人という偉業です。

以降もアメリカ セントルイス万博や、イギリス 日英博覧会にて受賞を重ね、世界的な知名度を獲得します。

審査員の一人はその作品を見て、“Perfect Tiger”と評したそうです。

 

50歳が近い頃に結核を患った翠石は、治療も兼ねて現在の神戸市へ移住し邸宅を構えます。

この時の地元の盛り上がりは相当なものだったようで、彼を支えるために名士たちが講演会を結成し、また精力的に彼の作品を収集したそうです。

しかしながらそのような名声に溺れることはなく、翠石はただ地道に虎の描写を深め続けました。

またこの頃からは猫や鹿といったポピュラーな動物画、クジャクや白熊のような日本では珍しかった動物の画、果ては山水画や仏画にも挑み、自身の領域を広げていきました。

晩年

70歳を越え日本が帝国主義を突き進む中、翠石は日本画壇の主催する主要な展覧会も意に介さず制作を続けたそうです。

彼にとって画業とはただ自分のためのみに存在していたため、二次的な要素は欠片も介在しなかったのでしょう。

この頃の作品は背景も簡素なものとなっており、その意識はまさに虎のみに注がれていました。

 

1945年、終戦の約2週間後に疎開先で81年の生涯を閉じたそうです。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

大橋 翠石 作『双虎図』です。

 

38歳の時の作品ですので、勧業博覧会に出展した作品でしょうか。

絵の具には金が混ぜられており、それを平筆でもって緻密に撫でることにより写実的な毛並みを獲得しています。

この技法はある意味、狂信的とさえ言える鍛錬の結晶であり、翠石自身も“これこそが自身の証明である”と述べています。

 

輝く毛並みは日本画とは思えないほどの立体感を演出させ、深山幽谷のような背景がその存在感をさらに強調していますね。

翠石自身は内向的で穏やかな人物だったそうですが、その秘めたる活力は画の中で表現されていたのでしょうか。

もしくは最愛の両親を亡くした翠石にとっては、自らの描く虎こそが活力を与えてくれる精神的な柱だったのかもしれません。

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