“元禄文化のシンボル” -尾形 光琳作『竹梅図屏風』を鑑賞する-
目次
作品概要
- 作品名 竹梅図屏風
- 画家 尾形 光琳(1658年~1716年)
- 制作時期 18世紀
光琳について
概要
尾形 光琳(おがた こうりん)は江戸時代中期の画家です。
桃山時代から続く琳派を発展させ、またそれを元禄文化の中心に据えさせました。
その才能は絵画から、工芸品、果ては日用品まで多岐に及び、歴史の教科書に載るほどの影響を日本文化史に与えました。
生涯
光琳は1658年(万治元年)に京都の呉服屋に生まれました。
尾形家は江戸時代初期の大芸術家 本阿弥光悦と血縁関係があるそうですので、光琳の才能はここから来たのかもしれませんね。
彼の生まれた呉服屋は徳川家康も客人として利用していたといわれる筋金入りの老舗です。
光琳は家業を通じて芸術に触れ、また幼少のころから茶道や能といった日本文化をよく学習していたそうです。
画は狩野派のものを学び、画家こそが自分の天職であると認識します。
それを象徴するように、光琳は屏風や和紙に限らず茶碗や皿、着物といったあらゆるものをキャンパスにしていたようです。
本人の性格は文化人とは程遠かったようで、家の財産を湯水のごとく使い毎日遊んでいました。
しかしながら芸術家としてのプライドは確かだったようで、本格的に画業に専念したきっかけは生活費の困窮の他に、周りへの見栄もあったと言われています。
30歳後半に差し掛かると、光琳は多くのパトロンの力を借りてすばらしい作品の数々を作り出しました。
パトロンには二条城の当主などそうそうたる面子がおり、なかでも中村内蔵助とは子供同士が結婚したりと深い親交があったようです。
そして宝永元年(1704年)、彼を頼り光琳は江戸へ移ります。
江戸では多くの豪商と関係があったそうですが、相変わらず光琳の生活は困窮していたそうです。
絵を描くこと以外は放蕩を謳歌していたのでしょうね、ある意味ひとりで経済を回したと言えるでしょう。
江戸での暮らしは5年ほど続き、その後は再び京都に戻り新居を構えます。
そしてその7年後に光琳は58年の生涯を閉じました。
死の3年前に光琳は息子を他家へ養子に出しています。道楽と画に明け暮れたせめてもの償いだったのでしょうか。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
尾形 光琳作『竹梅図屏風』です。
金地に描かれた竹林とそこに佇む一本の梅は、華やかな上方町人文化を象徴するものと言えるでしょう。
シンプルでありながら大胆な構図であり、国宝『紅白梅図屏風』同様に琳派の目指した理想を体現した一隻です。
光琳はこの作品を制作するときに何を考えていたのでしょう。
頭のすべての神経を大好きな画に向けて描き続けることができていたとしたら、それは仕事人としてなんと幸せなことでしょうか。
光琳は理想を絵の中に表現するとともに、制作中も理想の中にいたのでしょうね。
この作品は東京国立博物館に所蔵されていますので、ぜひご観覧ください。
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