“西洋文化を浮世絵へ” 歌川 広重 作 『京都名所之内-淀川-』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 京都名所之内-淀川-
- 画家 歌川 広重(1797年~1858年)
- 制作時期 1834年(天保期)
広重について
概要
歌川広重は江戸後期から幕末にかけて活躍した浮世絵師です。
彼の描いた浮世絵はヨーロッパに衝撃を与え、その色は“ヒロシゲブルー”と呼ばれました。
また広重の描いた画集『東海道五十三次』は江戸庶民の娯楽として大流行するとともに、現代では当時の風景を調査するうえで大変貴重な資料となっています。
非常に仕事熱心であったために彼が生涯に描いた作品は2万を超えるそうです。
生涯
作品概要
淀川は琵琶湖から滋賀・京都を経て大阪湾まで流れる河川ですね。京都においては宇治川、鴨川となり、さらに高瀬川のような支流へと分岐します。
高瀬川は江戸時代の初期に、京都の豪商によって作られた人工の運河であり、そこを進んだ“高瀬舟”は京都の人々の物流の中心となりました。
徳川家康は大坂夏の陣で荒廃した町を再建するために、淀川や道頓堀を始めとした、治水工事を積極的に指示します。
途中、過度な新田開発の余波で土砂の流入や濁流の被害が出ましたが、その都度護岸工事や改修工事が行われました。
上方は川をまたぐ多くの橋たちによって人々の交流が盛んになり、その様子はやがて“八百八橋”と呼ばれるようになります。(江戸の八百八町になぞらえたもの。)
商人たちの町、天下の台所と呼ばれる上方が生まれる根底には、この川があったのでしょう。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
歌川 広重 作『京都名所之内-淀川-』です。
この作品は東海道五十三次制作の翌年に画かれました。
江戸生まれで幕府の要人だった広重は、東海道を通り京都まで旅をしたそうです。
この作品もまた、そこでの記憶を頼りに作ったのでしょうか、多くの客を乗せて船が淀川を行く様子が画かれています。
この作品で用いられている青は、ヨーロッパから清の商人伝いに輸入された紺青です。
日本においては、伊藤若冲が動植綵絵の中で用いていること(この作品の70年前)が確認されていますが、本格的に日本画に導入されたのはこの時期からでした。
同時代では葛飾北斎を始めとした、名立たる画師たちがこの顔料を用いています。
西洋ではそれまで、フェルメールブルーと呼ばれたウルトラマリンが人気でしたが、この顔料が登場すると人気はたちまち塗り替えられました。
この作品は、その青を特に有効に活用していると言えましょう。
青い川面は柔らかい布のように船を優しく抱え、また夜空には月とともに1羽の鳥が舟を追っています。
人々は晩酌・談笑・授乳と思い思いの時間を過ごし、当時の人々の生活を織り交ぜた詩情的な風景が1枚の青い画にまとまっています。
木版画の性質上、同じ顔料でも油絵にくらべ発色も良く鮮やかであったため、広重の作品は欧米で大変な人気を博しました。
やがて『ヒロシゲブルー』と呼ばれる一連の作品群は、フランスにおいて印象派の成立やジャポニスムの誕生に多大な影響を与えます。
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