“和洋のグラデーション” 山村 耕花 作『踊り 上海ニューカルトン所見』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 踊り 上海ニューカルトン所見
- 画家 山村 耕花(1885年~1942年)
- 制作時期 1924年ごろ
耕花について
概要
山村 耕花(やまむら こうか)は明治~昭和にかけて活躍した日本画家・浮世絵師です。
尾形 月耕に師事し、その後岡倉 天心が設立した東京美術学校で画業を学んだ耕花は、第1回”日展”の頃からモダン日本画の全線で活躍しました。
代表作“梨園の華”を中心に、耕花は川瀬 巴水と並ぶ、新時代の浮世絵師です。
生涯
作品背景
上海は言わずと知れた中国、いえ世界随一の都市であり、今や世界経済の中核を担う国際大都市です。
この地に人が入植したのは、今より約3000年前、中国は”周”の時代でした。
その後、秦や漢などを経て唐代に現在の地名になったのですね。
その名の通り、上海は海に面しており、港町として漁業を中心とした生活が営まれていましたが、元の時代からは地理的に朝鮮や日本と近いことで、海上交易の要所にもなります。
そしてこれが現代の大都市 上海へとつながる最初のターニングポイントとなります。
大きな変化が訪れたのは1842年
当時の中国(清)にとっては苦渋の決断となる、アヘン戦争後の南京条約締結における、上海の強制的開港
時の世界の軍事においては、海上支配力が大きなファクターとなっており、アジアにおける補給地は列強各国にとって必要不可欠なものでした。
事実、同じころに日本も下田や函館を開港しています。
上海には各国の租界(外国人居留地)が設けられ、多くの外国資本が進出し始めます。
はじめに設立されたのは銀行からなる金融関係でした。自国の貨幣を流通させ、経済体制の土台を作らんとしたのですね。
また、明治時代のはじめ頃にはデンマークの会社により香港⇔上海⇔長崎を結ぶ海底ケーブルが結ばれ、国際的な電信系統が出来上がりました。
そして上海はイギリスを中心とした資本的土台のもと、各国の産業や文化が交流を行う国際都市へと変化していったのですね。
日清戦争の後、この動きはさらに加速し、諸外国の工場が設立され工業的な側面でも世界経済を支え始めます。
この時上海にひと際注力したのがユダヤ資本でした。
上海は課税率が低いため、租税回避地としてのメリットもあったことから、経済特区へと成長していったのです。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
山村 耕花 作『踊り 上海ニューカルトン所見』です。
ニューカルトンは当時上海にあったクラブでして、この作品はそこでの風景を画いたものですね。
前述した通り、上海は世界各国の文化や技術が混じり合う都市でしたので、西洋的な社交場やバーも多く作られました。
山村 耕花は各地の文化や風俗を取材し制作活動を行っていましたので、この作品もまたその一環で生まれたものでしょう。
作品からは、新しい世界を垣間見た耕花の感動がありありと伝わってきます。
透き通るような肌をした白人女性たちが、目の覚めるような色彩のドレスに身を包んで過ごす店内。その壁面は中国の青磁を思わせるような、透明感のあるブルーに彩られています。
人物の描写もまた美しいですね。
アイシャドウの入った切れ長の瞳、艶やかで光沢のある髪など、彼女たちに魅了された耕花の感動がダイレクトに伝わってきました。
この作品は、彼のキャリアの中で比較的早くに作成された木版画ですが、
木版画と言う側面だけを見れば、江戸時代の浮世絵とはもはや別のジャンルに至っていますね。
輪郭線は可能な限り取り除かれ、色使いは浮世絵と対極を成すかのように淡く幻想的にまとめられました。
明治時代に、浮世絵への西洋画技術導入が行われて以来、日本画同様に浮世絵は時代に合わせて変遷してきました。
そして大正、昭和にもなればそれは新たなジャンルへと生まれ変わっています。
山村耕花の作品は、浮世絵はもちろん、日本画の持つ可能性を示してくれる作品です。
西洋と東洋の融合によってできる新しい文化
この作品は芸術的側面でもそれを体現していました。
作品はホノルル美術館に所蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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