“広重と双璧を成す男” 歌川 国芳 作『相馬の古内裏』を鑑賞する

浮世絵

作品概要

  • 作品名 相馬の古内裏
  • 画家 歌川 国芳(1798年~1861年)
  • 制作時期 1845年ごろ

国芳について

概要

歌川 国芳(うたがわ くによし)は江戸時代末期の浮世絵師です。

同年代に活躍した歌川 広重とともに江戸を代表する浮世絵師になりました。ただし、風景画をメインに活動した広重と違い、国芳は風景画、歴史画、風俗画、狂画と多岐に活動していました。

また、無類の猫好きとしても知られています。

生涯

浮世画の神様が生んだ双子

歌川 国芳は1798年(寛政9年)に江戸の日本橋に生まれました。国芳に並ぶ大浮世絵師 広重は奇しくも江戸生まれで同い年です。

父親は染物屋を経営していましたが、国芳は幼い頃から絵に親しみ、北尾派の浮世絵の模写をよくしていたそうです。

その作品たちはやがて歌川 豊国の目に留まり、国芳は15歳で彼に入門しました。

役者絵師としての活動

豊国は役者絵で江戸の人々を魅了した絵師でしたので、その弟子たる国芳にもまた芝居の錦絵や挿絵の仕事が多く舞い込みます。

17歳の頃には錦絵の一枚絵を制作していますが、国芳は貧乏だったため兄弟子の長屋に居候して制作と修行に励んだそうです。

 

役者絵としての仕事が減りだすと、豊国の他に師匠を持ち、彼から武者絵の手ほどきを受けました。また、葛飾 北斎の作品を研究し自然物の描写にも励んだと言われています。

国芳の絵師としての出世はたゆまぬ努力の結果によるものなのですね。

不遇の時代を経て

25歳の頃から国芳の作品を手に取る人が減り始めました。国芳の作品よりも、彼の師匠を始めとした他の浮世絵師たちの作品を購入する人たちが圧倒的に多かったからです。

そのため国芳は同じ土俵(役者絵)で戦うことをやめ、明時代の中国で書かれた“水滸伝”の武者絵を連作で画きました。

その結果彼は『武者絵の国芳』と呼ばれ、浮世絵師としての確固たる人気を獲得したのです。

以降はこれまでに培った技術と知識を生かして狂画や美人画、風景画も世に出し、いずれも高い評価を得ています。

天保の改革

1840年代(国芳40歳過ぎ)に彼の人生を揺るがす天保の改革が行われました。

質素倹約を柱とする改革にのもと、江戸の庶民文化は弾圧を受けます。天保の改革は風紀取り締まりも兼ねていたため、美人画や役者絵は制作が禁じられ、多くの本が絶版となりました。

 

江戸っ子気質の芳年はこの運動に大いに反発し、自身の武者絵に登場する怪物を役人に見立てて世に出しています。

江戸の庶民もまたこれを喜び、彼の作品に込められたお上を風刺する皮肉を探してはストレスを発散させていました。

奉行所に捕らえられて罰を受けても彼は止まらず、いつしか国芳は庶民のヒーローになりました。

 

改革後、ダイナミックな構図の役者絵のもと彼は江戸で最も人気のある絵師になります。

 

そしてその上でも彼の向上心は止まらず、西洋の銅版画を研究しその技術を浮世絵に導入する試みをしました。

西洋ではルネサンス期に版画の技術研究が盛んにおこなわれ、また画そのものの写実性や空間表現も研究されています。これを取り入れた国芳の浮世絵は立体感と写実性を獲得しました。

ただし、斬新な発想で挑んだ国芳の新境地は、登場人物たちが写実的すぎたために当時の人々の理解を得ることはできていません。

この試みは明治時代になってようやく評価され、月岡芳年河鍋暁斎らに受け継がれています。なお、彼らは国芳に直接弟子入りしていた時期があるようです。

晩年

55歳の時には、ペリー率いる黒船が浦賀に来航しました。国芳は相変わらず反骨精神忘れぬ制作活動を続けており、一度幕府からお咎めを受けています。

 

このころ国芳は脳卒中を患ったようで、後遺症として四肢に障害が残りました。その証拠に以降の作品には隠し切れない線の硬さが見られます。

そして1861年に65歳の生涯を閉じました。

 

前述した2人を含め国芳は多くの弟子を持っており、彼らは玄冶店派と呼ばれています。

間もなく明治維新を迎え、浮世絵を始めとした江戸の庶民文化は揺る中な錐体を迎えますが、国芳の系譜は昭和の時代まで続いたそうです。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

歌川 国芳 作『相馬の古内裏』です。

 

この作品は『善知安方忠義伝』という架空の物語をモチーフにした3つの連作です。

本稿の画像はそれらをひと繋ぎにしたものですね。

 

画面左に画かれているのは、平安時代の大怨霊である平将門の娘 滝夜叉姫ですね。

彼女は父の恨みを継ぎ、下総国(茨木県)の筑波山にて妖術を会得しました。そして下総の相馬に館を構え、朝廷への謀反を企てます。

画かれているのは、その館に朝廷から派遣された大宅太郎光圀が現れた場面です。中央の刀を構えている武士が光圀ですね。彼に組み伏せられているのは、滝夜叉姫の弟である平良門です。

滝夜叉姫は光圀に対し、妖術で骸骨を召喚し応戦しました。

 

本来、善知安方忠義伝で滝夜叉姫が召喚するのは無数の骸骨たちですが、国芳はこれを改変し巨大な1体の骸骨にしています。

意表をついた試みに加え、国芳ならではのダイナミックな構図が相まって、当時の人々の度肝を何度も抜いたでしょう。

国芳はこの骸骨を画くために、西洋の解剖学の医学書を読み漁ったそうです。人々はこのリアルさのあまり夜道を怖がったのではないでしょうか。

 

昭和の中ごろに巨大な骸骨である“がしゃどくろ”という妖怪が創作されますが、国芳のこの作品はがしゃどくろのイメージとして頻繁に用いられていたそうです。

 

 

この作品は東京富士美術館などに収蔵されています。

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