“昭和の達人” 竹内 栖鳳 作『秋興』を鑑賞する

日本画

作品概要

  • 作品名 秋興
  • 画家 竹内 栖鳳(1864年~1942年)
  • 制作時期 1927年(昭和2年)ごろ

栖鳳について

概要

竹内 栖鳳(たけうち せいほう)は明治~昭和に活躍した日本画家です。

京都の四条派に師事し日本画を修めた栖鳳は、若いうちからその頭角を現し京都芸術界の筆頭として活動します。

また後進の育成に加え、西洋芸術を熱心に研究したことで日本画に革新をもたらしました。

晩年は京都画壇を代表する大家へとなります。

生涯

料理屋の一人息子

竹内栖鳳は幕末1864年(元治 元年)の京都に生まれます。生家は魚料理屋であり、彼はそこの一人息子でした。

13歳の時に四条派の日本画家のもとへ弟子入りすると、4年後に幸野 楳嶺に師事します。

楳嶺は四条派に加え円山派でも20年の修業を積んだ名手であり、これにて栖鳳は京都日本画を幅広く知ることができました。

 

この頃から日本画の麒麟児たる才覚は現れ始めており、わずか1年で楳嶺四天王の一角と言われるまでに成長します。

独立

23歳の時には結婚を機に独立し、京都府画学校にて教員として働きながら制作活動を行いました。(それまでは同校に通っています。)

栖鳳は画家としての技術に加え、高いリーダー気質を持っていたため、同年代の日本画家とともに“青年画家懇親会”を立ち上げます。

 

若い頃の作品はあまり残っていませんが、国内の展覧会に加え万博などにも出展されていたそうです。

30代の半ばには京都市立美術工芸学校(現 京都芸大)の教師に推薦されています。

おそらく栖鳳は、下のものを惹きつけるカリスマ性や高い指導力を持っていたのでしょうね。

海外へ

36歳の時にパリ万博に出展した作品は高い評価を受け、これを機に栖鳳は半年以上に及ぶヨーロッパ旅行を行います。

旅行先ではバルビゾン派の名手であったフランスのカミーユ・コローや、イギリスのロマン派画家ターナーの作品を好んで学習したそうです。

 

イギリスは他の西洋諸国に比べて絵画の歴史は浅く、故にあまり評価されることはありませんでしたが、そのような事情を気にせず取り入れたことが栖鳳の画域を広げました。

なお、この旅行後に画号を『栖鳳』としています。栖の字は西洋画も意味しているのですね。

画壇の筆頭へ

43歳の時からは文展や帝展の審査員を務め、さらに50歳を目前にする頃には現在の人間国宝に値する人物に指定されました。

現代の人間国宝たちと比べてもわかる通り、これは異例の若さでの評価でした。

 

これにより竹内 栖鳳は名実ともに京都はおろか、日本画壇の筆頭となるのですね。

関東出身であり、東京を中心に活動した横山大観とともに、“西の栖鳳、東の大観”と言われたそうです。

 

以降も国内外を問わずに活動し、フランス/ドイツ/ハンガリーなどで勲章されるとともに、73歳の時には文化勲章の初代受勲者となりました。

そして太平洋戦争開戦の半年後に、肺炎のため亡くなりました。(享年 77歳)

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

竹内 栖鳳 作『秋興』です。

 

秋興は約1300年前に杜甫が読んだ詩です。

秋特有の寂しさを読みながらも、詩情的で美しい言葉遣いが特徴ですね。

 

この日本画もまた、その詩にインスピレーションを受けて制作されたのでしょうか。

落ち葉が浮かぶ湖面を静かに行く鴨たちが描かれています。

日本画とは思えない程の繊細な筆致で画かれた鴨たちは生を帯びており、栖鳳の動物画は匂いすら感じると評されたそうです。

 

彼は四条派・円山派の技術に加え、西洋画や狩野派の画法すらも取り入れたため、保守的な派閥から『鵺派』と侮蔑されたこともありました。(鵺は猿の顔/狸の胴/虎の手足/蛇の尾をもった妖怪です。)

しかしながら彼の意志は常に日本画の新境地を模索し続けたために、名だたる弟子たちとともに現代日本画に強い影響を与えました。

 

この作品は京都国立近代美術館に所蔵されています。(外部リンクに接続します。)

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