“こだわり、故に困窮する” シスレー作『ハンプトンコート宮殿の橋の下で』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 ハンプトンコート橋の下で
- 画家 アルフレッド・シスレー(1839年~1899年)
- 制作時期 1870年
シスレーについて
概要
アルフレッド・シスレーは19世紀にフランスで活動した印象派画家です。
もともと画家を志望していたわけではありませんが、青年期にモネやルノワールに出会いその世界に傾倒し始めます。
しかしほかの印象画家同様に彼の作品の評価は低く、またそのような中においても終生画風を変えることはありませんでした。
そんなシスレーを指して真の印象派画家と呼ぶ人もいました。
生涯
フランス生まれの英国人
アルフレッド・シスレーは1839年のパリに生まれます。彼の両親はイギリス人貿易商でした。
当時のイギリスと言えば、アヘン戦争(1840年)に代表されるように列強として帝国主義を牽引する大国の一つです。
シスレーは生涯のうちでフランスの市民権を求めることはあったものの、結局最後までイギリス人のままでした。
絵画との出会い
18歳の時のシスレーはロンドンで経済学を勉強しており、将来は父同様にビジネスマンとして生きていくつもりでした。
転機が訪れたのは4年後であり、パリでモネやルノワールと出会いうと芸術にのめり込むようになります。
専ら風景画を好み、戸外へ出ては仲間たちとともにデッサンに励んでいたようです。
しかし、印象派画家の鮮烈すぎる色使いは当時のサロンからは酷評され、シスレーたちは誰からも受け入れられることなく自らの芸術を鍛え続けることになります。
サロンへの出展
27歳の頃にはパリに住んでおり、また恋人との間に2人の子供を授かっています(入籍はしていません)。
29歳の時にサロンで作品が入選しますが多くの買い手がつくことはなく、シスレーは父親からの援助でようやく生活ができるレベルの画家でしかありませんでした。
また普仏戦争が勃発すると住んでいた家や財産を失い、さらにその後発生したフランス自治政府(パリ・コミューン)の統治下ではイギリス人という立場から、彼は生涯にかけて困窮した生活を送ることとなります。
苦境の中での制作活動
生活苦の中で画家としての彼を支えたのは後援者たちです。
出会いのきっかけは自らも出展した“第1回印象派展”であり、彼らの助けを得てシスレーはイギリスを始めとしたヨーロッパ各地へ旅行することができました。
もともと風景画を好んで描いたシスレーにとって、見たこともない旅先での景色はその感性や意欲を大いに刺激するものだったでしょう。
晩年
シスレーは57歳の時ついにパートナーであったウジェニーと正式に結婚します。
なお国籍はイギリスにあったために、婚姻届けはウェールズのカーディフにて提出しました。結婚後しばらくの間もカーディフに住んでいます。
その後フランス政府に市民権の要請を行いましたが、病気を理由に断られました。
1899年に癌で逝去します。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
アルフレッド・シスレー作『ハンプトンコート宮殿の橋の下で』です。
ハンプトンコートとはロンドン南西部にある宮殿であり、この作品はその近くの橋の下で作成されたものでしょう。
印象派の画家は総じて低い評価を受け、それ故に自身の作風を大衆に合わせて変化させた者が多いですが、シスレーは違いました。
約900点の作品のほぼ全ては風景画であり、さらにそれらは一貫して印象派の画法を駆使して描かれています。
この頑固なまでの画法へのこだわりこそが、自らの経済的な困窮を招いたのでしょう。
作品では川を船で行き来する人々が描かれていますが、表現の中心はむしろ水面を始めとしたきらびやかな水と光の情景です。
いくつもの色を用いた水面は波打ちながら輝いており、奥の木々は風に吹かれてたなびいていますね。
穏やかな日常は一見すると面白みのない題材のように見えますが、戦争とコミューンの騒乱を経験したシスレーにとっては確かに輝く宝石だったのでしょう。
たとえ貧しくても、穏やかな日常の中に幸せは存在している。そんなことを感じさせてくれる1枚でした。
この作品はスイスのヴィンタートゥール美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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