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“その名は神刀 猫丸” 小林 永濯 作『道真天拝山祈祷の図』を鑑賞する

日本画

東風(こち)ふかば 匂いおこせよ 梅の花

主なしとて 春な忘れそ

ー菅原 道真 辞世の句ー

作品概要

  • 作品名 道真天拝山祈祷の図(みちざねてんぱいざんきとうのず)
  • 画家 小林 永濯(1843年~1890年)
  • 制作時期 明治時代

小林 永濯について

概要

小林 永濯(こばやし えいたく)は江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した日本画家かつ浮世絵師です。

魚河岸屋の息子として生まれながらも狩野派に師事し、画師として生計を立てました。

浮世絵師としての側面も持ち合わせており、また明治維新以降は日本の国学に基づいた神話絵や歴史絵を制作したため、海外で人気な芸術家です。

生涯

絵を心の拠り所に

小林永濯は天保14年に江戸の日本橋(現 東京都中央区)に魚河岸屋の魚問屋の息子として生まれます。

病弱かつ潔癖だったがために生魚を嫌い、幼い頃から絵筆に親しんでいました。

 

13歳の時から狩野派の画師に学び日本画を修めると、姫路藩や彦根藩でその筆を執りました。

一時は姫路藩の井伊家お抱え絵師になる機会がありましたが、これは桜田門外の変に始まる動乱で流れます。

独立

明治元年に永濯は日本橋に自らのアトリエを持ち、そこで百鬼夜行図の錦絵(浮世絵)を描きました。

しかしこの行動は浮世絵との関わりを禁止していた狩野派の逆鱗に触れたため、永濯は友人たちの庇護のもと浮世絵師として活動することになります。

 

温和で礼儀正しい永濯は友人たちからの信頼も厚かったため、河鍋暁斎や月岡芳年といった多くの画家と親交を深めました。

日本画家に限らず洋画家と交流をしていたことを示す資料もあるそうです。

日本を代表する画家へ

40代に差し掛かると永濯は錦絵と日本画の両方を制作するようになります。

彼は狩野派の技法に加え、中国の南画に見られる技術も習得していたようであり、総合的な技術でもって平安・鎌倉時代の歴史画イザナギノミコトの日本創成の様子を画きました。

後者は現在ボストン美術館に所蔵されており、欧米人を中心に評価を得ています。

菅原道真について

菅原道真は平安時代の貴族・役人です。

武芸と学問両方に優れ、忠臣かつ部下を想う理想の役人でした

しかし、貴族たちの政争に巻き込まれ大宰府に左遷された道真は、嘆きの中でその生涯を閉じました。

その後、朝廷に多くの天災や病が流行り、これを道真の祟りと考えた朝廷は彼をとして奉り、これを沈めました。

生涯

麒麟児

菅原道真は同家の3男として生まれました。

幼少期から学問の才能が見え隠れしており、その才能を育てながら23歳で役人となります。

30歳を越えるころには現役であった父を差し置いて仕事の依頼が来ていました。

昌泰の変

40代半ばで宇多天皇の臣下となり、また同天皇の皇子を自身の子息と結婚させてその結びつきはより強固になります。

しかし、宇多天皇が皇位を醍醐天皇に渡すころに事件は起きました。

 

宇多天皇は右大臣に道真を、左大臣に藤原時平を配置していましたが、天皇の側近としての地位を不動のものにし続ける道真に対し、時平を中心とした貴族たちの間では道真への嫉妬心が日々膨らみ続けます。

そして皇位が醍醐天皇へ譲位されたころ、時平は道真を“宇多上皇及び醍醐天皇を惑わせて自身の子息に皇位を与えようとした”という理由で大宰府に左遷します。そのうえ道真の息子たちは流刑に処されました。

宇多上皇はすぐさまそれを撤回させようと行動しますが阻止されました。世に言う『昌泰の変』です。

逝去と怨霊化

左遷にかかる諸費用はすべて道真の自費で支払われ、また大宰府左遷後は仕事を振られず俸給は減少しました。

道真は失意の日々を送りながら大宰府で過ごし、2年後に逝去しました。

彼は梅を愛でており、自宅の庭の梅が心の拠り所だったようです。辞世の句には、自身の死後も毎年梅が咲き続けるようにとの願いが綴られています。

 

道真の死後、都では藤原時平を始めとした貴族たちが次々と亡くなりました。

また醍醐天皇の皇子が薨御したほか、平安京内の建物に雷が落ち死傷者が多数出ました。

これは道真が怨霊化し、自分たちを祟っているからだと結論付けた貴族たちはすぐさま彼を神格化し、天満宮を建ててこれを鎮めました。

今なお残る全国の天満宮は、すべて道真を祀るものです。

 

しかしながら道真は思慮深く、かつ左遷後も朝廷への忠義は持ち続けていました。

ゆえにこの祟りは道真によるものではなく、彼を嵌めた貴族たちの脆弱な心が生み出したものと考えられています。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

小林 永濯 作『道真天拝山祈祷の図』です。

 

天拝山は菅原 道真が自らの無実を神に伝え、貴族としての復帰を神に拝んだことからその名が付きました。

その願いが叶うことはありませんでしたが、結果として彼は神格化し天に上ります。

作品には稲光が轟く山頂で、道真に神格が宿る瞬間が描かれています。

腰には道真が自ら鍛えた神剣 猫丸が備わっています。

 

この作品は明治時代の日本画でありながら、現代の漫画に通じるような表現方法が多くみられます。

稲光の色合いや服のしわはアメコミのようですね。

制作された時代はフェノロサの影響で日本画に革新が起きていた時代でした。

永濯もまた、横山大観川合玉堂同様に日本画を後世に残すために奮闘した画家の一人だったのでしょうね。

 

この作品はボストン美術館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)

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