“それらは朦朧体と名付けられた” 横山 大観作『雨霽る』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 雨霽る(あめはる)
- 画家 横山 大観(1868年~1958年)
- 制作時期 1940年
大観について
概要
横山 大観(よこやま たいかん)は明治・大正・昭和にかけて活躍した日本画家です。
近代日本画壇を作り上げた画家の一人であり、昭和12年に第1回文化勲章を授与されました。
大観はそれまでの日本画にはなかった新しい試みに積極的に挑戦し、日本画の新境地を開拓しました。
それらは線の描き方や顔料の伸ばし方など多岐に及び、統一して“朦朧体”と呼ばれています。
生涯
師を見つける
横山 大観は明治元年に茨城県の水戸藩士の家に生まれます。
中高一貫校であった東京英語学校在籍時に絵画に興味を持ち、洋画家や日本画家のもとで技術を磨き東京美術学校(現 東京藝術大学)へ入学しました。
大観はここで橋本雅邦や岡倉天心といった画壇の重鎮に学びますが、とくに岡倉天心を師と仰ぎ画の技術のみならず考え方に至るまで参考にしていたそうです。
愛国心
大観の父である酒井捨彦は勤王派であり、師の岡倉天心も愛国主義の思想家であったため、大観もまた自国の伝統を重んじていました。
自身の作品には日本の象徴である富士山をよく用い、戦時下においては盛んに寄付をしたそうです。日本の同盟国であったためでしょうが、ドイツのヒトラーに画を献上したこともあったそうです。
それらの行為のせいか、戦後はGHQから戦犯にされそうになったこともありました。
日本美術院創設
明治31年に岡倉天心が東京美術学校の校長職から失脚します。
当時、大観は同校の助教授を務めていましたが、これに異を唱え天心に続いて学校を去りました。
またその他の天心派の画家たちも続き、岡倉天心は彼らをまとめ上げて日本美術院を創設します。
日本美術院は院展を開催する日本最大の美術団体になりましたね。
朦朧体の確立
横山大観は黒田清輝の画風に影響され、輪郭を線で描かず絵の具の濃淡でこれを再現することに挑戦します。
また、これまでの日本画は余計なものを画かず余白を生かした表現を追求していましたが、大観らはそこにもメスを入れ、画絹を色で埋め尽くすという西洋画的な方向性も取り入れました。
このような試みは旧派から“幽霊画”と呼ばれ批判れましたが、今日では日本画を進歩させたものとして評価されています。
時代の寵児へ
朦朧体で描かれた大観の作品は、はじめ海外で高い評価を得ました。
大観はインドやアメリカをはじめ、ヨーロッパの国々でも展覧会を開きました。
そして行く先々で評価を受けると日本国内での彼への見方も変わるようになります。
大観はその流れをうまく利用し、当時西洋画に押され気味であった日本画の魅力を再度日本人に認識させることに成功します。ここに大正日本画ブームが巻き起こるのですね。
以後横山大観は日本画の巨匠として筆を握り続け、90歳で亡くなるまで数千点の作品を画いたそうです。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
横山 大観作『雨霽る(あめはる)』です。
“霽”は天気が晴れわたる様を表すと同時に、心が晴れわたる様子も表しています。
作品には大観が好んだ富士山を奥に見つつ、山々の間を雲が縫う様子が描かれています。
手前の山は墨の濃淡で峰が描かれ日本画の様相を残しているのに対し、富士山は非常に写実的で西洋絵画のようにも見えますね。
また合間を縫う雲は綿のようにきれいにグラデーションをしており、朦朧体の粋を集めた作品と言えます。
この作品は島根県の足立美術館に収蔵されています。(外部リンクにアクセスします。)
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