“新たな時代の創造” 中編 クロード・モネ作『積みわら』を鑑賞する
目次
作品概要
- 作品名 積みわら
- 画家 クロード・モネ(1840年~1926年)
- 制作時期 1891年ごろ
モネについて
概要
クロード・モネは19世紀のフランスの画家です。
当時軽んじられていた風景画の制作をの中で独自の技法を次々に編み出し、ルノワールやシスレーらとともに、のちに印象派と呼ばれる画風を築いた人物です。
現代の価値観と異なり存命中のモネの評価は終生高くありませんでしたが、彼は一貫して印象主義絵画を作り続けました。
また、浮世絵を始めとした日本文化の収集家、所謂ジャポニザンでもありました。
生涯
再起をかけて
第1回印象派展の失敗は、モネを始めとした印象派の画家たちの精神と生活の双方にダメージを与えました。
2年後にモネ達は再起をかけて第2回印象派展を開催します。
モネはここで『ラ・ジャポネーズ』を始めとした18点の作品を出品し、いくつかの買い手がつきましたが依然として生活水準は低いままでした。
『ラ・ジャポネーズ』は自らの妻をモデルとした作品であり、今日では非常に高い評価を得ていますが当時は嘲笑されていたのでしょうね。
その妻はこの頃から体調を崩し始めます。
転居
38歳の頃、借金がかさんだモネはヴァル=ドワーズの小さな村に引っ越し、彼のパトロンの家族と同居します。
このころのモネは印象派展への出品に対して消極的な姿勢を見せていました。この活動がサロンでの評価や作品の売り上げに悪影響を及ぼしていると考えたからです。
そんな中最愛の妻カミーユは32歳の若さでこの世を去ります。
モネは絶望の中に一人佇みながらも、子供たちを育てるための策を模索しました。そして印象派展と決別し、自身の個展を開くことを決意します。
当然仲間たちはこれに反発しますが、このあと印象派の画家たちはジョルジュ・スーラらの影響でその作風を“新印象派主義”へと変質させるため、どのみちモネの方向性とは合わなったと考えられます。
またフランス経済の回復に合わせ、モネの作品の購入者も増えたことで彼とその家族の生活は次第に安定していきました。
モネはこのころからサロンや印象派展から距離を置き始めます。
最後の転居
43歳になったモネは親交の深かった画商の助けを得てジヴェルニーへ引っ越します。
モネはここから各地へ旅行し制作活動を行いました。旅の途中では印象派仲間にも会い、刺激を受けていたそうです。
この度の中でモネが得たものは大きかったようで、例えばルノワールに再開したときには彼の作品に対して「あらゆるものが玉虫色のようにきらめいている。」と残しています。
またオランダではチューリップ畑に目を奪われ、のちに大きな称賛を受ける作品を制作しました。
浮世絵の影響?
50歳を迎えるころのモネの作品は葛飾北斎や歌川広重のように連作を中心に制作を行います。
『富嶽三十六景』や『東海道五十三次』のように1つのテーマを掘り下げることで、作品に深みを持たせたのですね。
その代表例の一つが今回紹介する『積みわら』です。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
クロード・モネ作『積みわら』です。
『積みわら』は25作からなる連作であり、クロード・モネの晩年の代表作の1つですね。
この作品の見どころは“空気”でしょう。
印象派画家としての哲学を突き詰めたモネは、自身が感じた空気感を情景にしてキャンバスの残すことを目指します。
そしてノルマンディー地方の農村の風景を季節を越えて描写することを思いつきました。
本項で紹介するのは冬の光景ですね。
雪景色が広がりながらも日光がさしており、光と影のコントラストが美しい作品です。
日光を浴びた積みわらは季節ごとにその表情を変え、周りの空気たちもまた季節に合わせて色合いを変えます。
モネは冬の晴れ間に明るい笑顔を見出し、目を細めながらもこれをキャンバスに描こうとしたのでしょう。
モネの作品の特徴かもしれませんが、雪を被ったわらの中に赤や褐色といった本来存在するはずのない色を混ぜていることに、私は驚きを隠せませんでした。
彼は自身の作品に対してとにかく頑固だったようで、余計な雲などが現れたときには制作をやめたそうです。
天才が時間と労力を惜しげもなく割いたことでできた作品なのですね。
これらの作品はアメリカで大ヒットし、現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されています。
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