“差別され、故に筆をとる” ロートレック 作『ディヴァン・ジャポネ』を鑑賞する
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作品概要
- 作品名 ディヴァン・ジャポネ
- 画家 アンリ・ド・ドゥルーズ=ロートレック(1864年~1901年)
- 制作時期 1892年
ロートレックについて
概要
アンリ・ド・ドゥルーズ=ロートレックは19世紀にフランスで活躍した画家です。
幼くして身障者となったロートレックは父親から疎まれ、以降絵画を精神の柱としました。
彼は艶やかな女性たちに魅力を感じ、その美しさを画くことに心血を注ぎました。
また、ゴッホらと同様に日本文化を愛するジャポニザンの一人でもあります。
生涯
近親婚の犠牲者
アンリ・ド・ドゥルーズ=ロートレックは1864年に南フランスのアルビに生まれました。
彼の家は貴族であり両親は近い親類同士です。幼い頃から弟ともに可愛がられていましたが、弟が亡くなったころから家庭内不和が起き始めます。
やがて両親は別居し、ロートレックは母親とともにパリへ引っ越しました。
ロートレックが8歳の頃から母親は彼の絵画の才能を見抜いていたため、知り合いをたどって画家を探し、息子にレッスンを受けさせます。
ロートレックに不幸が降りかかったのは彼が13-14歳の時です。
彼は立て続けに両足の大腿骨を骨折し、以降足の発達に障害を抱えました。
大腿骨は足の付け根にあたる部分であるため、ここへの障害は足の成長に大きな影響を与えます。
結果ロートレックは胴体のみが成長し、足は子供のまま大人になります。
不慮の事故ではあるものの、これは近親婚による遺伝的なエラーで骨の形成や強度に疾患が発生したと考えられています。
父親はそんな息子を毛嫌いし、ロートレックは孤独な青年時代を過ごしました。
芸術家へ
ロートレックは18歳のからパリの画塾に通い始めます。
ここで彼はフィンセント・ファン・ゴッホやエミール・ベルナールと知り合います。
孤独に過ごしたロートレックにとっては天からの宝札だったでしょう。
そしてロートレックは、有名なキャバレーであるムーラン・ルージュに通いはじめます。
自身が差別を受けてきたためか、彼は夜の世界で仕事をする女性たちに共感し、彼女らと深く関係を持ち性欲を発散しました。
同時に愛場をもって彼女たちやムーランルージュをモデルにした作品を描きます。
このころから彼はリトグラフを好んで用いたため、モデルたちは華やかなポスターとなってパリの街を彩りました。
ロートレックの愛情は作品にありありと現れており、彼の作品はポスターを芸術の域まで高めたと現代でも高く評価されています。
苦悩と病魔
それでもなおロートレックの精神に安らぎが訪れることはありませんでした。
以前として身障者である自分への差別は続いており、ロートレックは逃げるように酒や女性に溺れます。
やがてアルコール依存症と梅毒にかかって衰弱したロートレックは、両親のすすめで診療所に入り、その後は母親のもとで過ごしました。
そして両親に見守られる中、脳出血で36年の生涯を閉じます。今わの際には、自身を蔑んだ父親に対して怨嗟の言葉を紡いだそうです。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
アンリ・ド・ドゥルーズ=ロートレック作『ディヴァン・ジャポネ』です。
1892年に制作したカフェ・コンセールのためのポスターですね。
カフェ・コンセールとは併設したステージでショーを見せる形態のレストランです。
奥にいる黒い手袋の女性が歌手ですね。
中央の女性は真っ黒な衣装に身を包んでおり、そのため見る者の心は自然と美しい彼女に向けられます。
当時のフランスにはなかったメリハリのある色使いは、浮世絵から着想を得たと言われています。
ポスターを見た貴婦人たちは同じようにカフェ・コンセールに足を運んだのではないでしょうか。
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