“栄華と没落の後に” 尾形 月耕 作『月耕随筆 -稲荷山 小鍛冶-』を鑑賞する
目次
作品概要
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- 作品名 月耕随筆 -稲荷山 小鍛冶-
- 画家 尾形 月耕(1859年~1920年)
- 制作時期 1887年(明治20年)ごろ
月耕について
概要
尾形 月耕(おがた げっこう)は明治~大正時代に活躍した日本画家・浮世絵師です。
裕福な家庭に生まれるも、元服の前後で家は没落し、月耕は独学で画術を修得しました。
生来の才能か努力の賜物か、彼の画師としての評価は瞬く間に高騰し、また晩年は国際的な展覧会でも活躍しました。
生涯
栄枯盛衰
尾形 月耕は江戸時代の末期、安政6年(1859年)の江戸に生まれました。本名は名鏡 正之助です。
生家は葛飾の地主であり、人材派遣やごみ収集業の元締めを行う大富豪でしたが、明治のはじめ頃に父親の逝去とともに没落します。
生前、月耕の父親は彼に画の勉強を強く奨めており、彼はその意向のもと独学で浮世絵や日本画を修行しました。
瞬く間に
月耕は自らの足で仕事を探し、吉原の遊郭や陶器・漆器の職人のもとで画術の研鑽に励んだそうです。
そして18歳の時に描いた『征韓論』が好評を受け、“尾形”姓を襲名した後は月岡芳年らに続く人気浮世絵師となります。
師匠も持たず、またデビューから間もない頃にこれほど評価を受けることは、まさしく偉業と言えましょう。
時代の最前線へ
30歳ごろには新聞や小説の挿絵を担当するようになり、月耕の名は日本中に知れ渡ります。
時代物錦絵や戦争画の研鑽にも余念がなく、『月耕随筆』や『源氏物語』、『日清戦争画』などの作品を世に送り出しました。
同世代の人気画師同様に、マルチに活躍する売れっ子絵師としてトレンドの中心にいたのです。
世界へ
30代の後半に差し掛かる頃には、明治天皇への作品献上、日本美術院からの一等褒状といった輝かしい功績の数々を与えられます。
そして明治26年(1893年)からは、シカゴやパリを始めとした世界各国の万博に作品が出展され、その折々で受賞を受けました。
月耕は錦絵を通じて、日本の文化を世界に広めた第一人者と言えます。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
尾形 月耕 作『月耕随筆 -稲荷山 小鍛冶-』です。
描かれているのは平安時代の刀工 三条宗近ですね。
宗近は天下五剣の一振りである国宝 “三日月宗近”を鍛えた名工です。
宗近はある日、一条天皇の勅命で急遽刀の制作を命じられますが、共に刀を鍛える鎚打ちがいませんでした。
進退窮まった宗近が稲荷神社の参内し祈ったところ、一人の不思議な少年が現れ、鎚を打ってくれました。
晴れて刀剣が出来上がると、少年はその刀身に“小狐”の銘を刻み山に消えたそうです。
彼は稲荷神社の主祭神である、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)もしくはその分神でしょう。
文献調査からこの山は京都の稲荷山であり、稲荷は京都で最も歴史を持つ伏見稲荷大社であると推測されました。
現在小狐丸は消失していますが、発見されれば間違いなく国宝に認定されるであろう神剣です。
作品では宗近が少年の力を借りて、ともに鎚を振っている場面が描かれています。
宗近の着物はグラデーションが施された深い空色であり、奥の少年は明るくも薄い配色がなされています。
2人を囲むように紙垂が巡らされていることから、ここが簡易的に作られた神域であることがわかりますね。
また、少年の奥にはうっすらと狐の神霊がいます。
月耕は2人の人物にフォーカスが当たるように色彩を抑えつつ、少年をあえて薄い配色で表現することで神性を表現しました。
“随筆”とは本来、作者の心にあらわれた感動を文章に起こしたものですが、画師である月耕はそれを錦絵で表現したのです。
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