“価値観の破壊者” 今村柴紅 作『熱国之巻』を鑑賞する

日本画

作品概要

  • 作品名 熱国之巻(ねっこくのまき)
  • 画家 今村 柴紅(1880年~1916年)
  • 制作時期 1914年(大正3年)ごろ

柴紅について

概要

今村 柴紅(いまむら しこう)は明治~大正期に活躍した日本画家です。

その生涯は35年と、ラファエロを越える短命でしたが、破天荒な芸術スタンスは多くの画家に影響を与えました。

明治期の多くの画家たち同様に、岡倉天心や横山大観に影響を受けた画家の一人でもあります。

作品数は少ないものの、一部は国の重要文化財に指定されました。

生涯

横浜に生まれる

今村 柴紅は明治13年の横浜に生まれました。父親は江戸から横浜に引っ越して商売を始めた人物です。

 

今の時代からは想像もできませんが、横浜は江戸時代の末期までは和かな漁村でした。

しかしペリーによる開港から始まった横浜開発は明治時代も続き、横浜には多くの建築物が立ちます。

加えて江戸幕府、及び明治政府は横浜を外国人居留地の拠点としたため、横浜には各国の要人たちの屋敷と銀行が立ち並ぶようになります。

柴紅の父親はこのフロンティアに可能性を求め移住したのですね。

 

17歳の時には実の兄と共に松本 楓湖に弟子入りします。

師匠もさることながら、実兄の手解きは非常に厳しいものだったそうで、柴紅は何度も叱責されながら筆を握りました。

厳しい修行の中で画術と精神を鍛え、また生涯を共にする友も得た柴紅は、いつしか若年日本画家のリーダー的存在になります。

次の師との出会い

柴紅は27歳の時に、自身の画家人生を変えるであろう3人の人物に出会いました。岡倉天心、横山大観、菱田春草です。

「好きな画家は?」という問いに、間髪入れず(俵屋)宗達です。」と答えた柴紅を、岡倉天心は気に入ったそうです。(当時、俵屋宗達は尾形光琳の影に隠れた無名同然の画家でした。)

 

柴紅は若くも日本画の歴史を研究し尽くした努力家でした。

そしてその知識は強い自信となって身の外に出ます。

第1回の文展において自身の作品が落選した際も気に留めず、それどころか審査員の作品を本人のそばで酷評したそうです。

 

天心を始めとした開拓者たちに感銘を受けた柴紅の探求心はさらに深まり、食指は日中の古美術に伸びました。

そして富岡鉄斎を始めとした文人画や南画を研究し、さらに西洋の印象派すら混ぜた柴紅独自の世界観を作り上げるに至ります。

常識の破壊

今村 柴紅は古い日本画の常識と闘い続けました。

 

“完成されたものを次の段階へ向かわせるには、一度破壊しなければならない”

“芸術には理屈も束縛も無い。自由に描け。”

“僕は日本画を徹底的に壊す。だから君たちはそれを再構築してくれ。”

 

柴紅は自身を破壊者として位置付け、改革のためにその人生を捧げます。

 

彼に続く日本画家たちはその背中を追い、燃えるたぎる意思と共に未来を見据えました。

しかしその理想は彼の突然の死によって暗礁に乗り上げます。

 

死因は飲酒による肝臓病と脳出血でした。

若干35歳、神様の意地の悪いいたずらとしか思えない、日本画の未来を閉ざしかねない最悪の事件です。

 

それでも、彼の情熱と改革心は後進へ引き継がれ、“詩情の画家”小茂田 青樹や、“昭和初の重要文化財”を描き上げた速水 御舟といった名人たちが日本画界に現れます。

鑑賞

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あらためて作品を見てみましょう。

今村 柴紅 作『熱国之巻』の一部です。

 

柴紅自身ですら冒険心をもって描いたという、彼の生涯を最も色濃く表した代表作です。

彼はこの作品を描くために自身の作品を売って海外へ渡航したそうです。

 

本項で紹介した絵は全2巻の一部に過ぎず、全体は各国で得た感動を表現した12枚の作品群からなります。

柴紅は日本での概念枠が全く当てはまらない生活風景に、心をときめかせ続けたでしょう。

そして感動をストレートに表現するために、対象物たちを可能な限り単純化し、暖色を中心とした明るい色彩でもって太陽のもと生活する命を描きました。

印象派の概念も流用されていますね。

 

日本画の常識を壊しつつも、新たな表現の可能性を示した歴史的な作品と言えましょう。

 

重要文化財に指定されたこの作品は、東京国立博物館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)

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