“日本近代画の祖” -黒田 清輝作『読書』を鑑賞する-
目次
作品概要
- 作品名 読書
- 画家 黒田 清輝(1866年~1924年)
- 制作時期 明治初期(1892年~)
黒田について
概要
黒田 清輝(くろだ せいき)は明治初期に活躍した日本の洋画家です。
士族の出身で政治家でもあった黒田は、芸術学校の創設に尽力し日本洋画壇の草分けとなりました。
維新後、後に文化庁の日本芸術院(旧 帝国芸術院)の院長となります。
また、黒田は日本画に“外光”という概念を導入した人物としても有名です。
生涯
生まれ
黒田 清輝(くろだ せいき)は江戸時代の末期に薩摩藩(鹿児島県)の藩士のもとに生まれます。
薩摩藩と言えば西郷隆盛や大久保利通を輩出し、明治維新の中核を支えた藩の一つですね。
ただし、江戸時代には琉球を支配した島津斉彬をはじめとする有力大名が名を連ねる外様藩でした。
黒田は明治維新後に上京し、20歳になるまで種々の教育機関で学びます。
芸術に出会ったのは12歳の時で、ある日本人洋画家の門徒に弟子入りし水彩画を学びました。
そして18歳の時にはフランスに留学します。
この留学は法学を学ぶためのものだったようですが、パリで日本人画家や画商に出会う中で画家になることを決意したそうです。
師はフランス人画家ラファエル・コランでした。
芸術家としての活動
黒田の作品は早々とフランスで評価されます。
本項で紹介する『読書』はフランスのサロンで入賞し、その2年後にも『朝妝(ちょうしょう)』で入選しました。
黒田はその翌年に帰国し、美術教師として教壇に立ちます。
この頃の日本は文明開化の波が落ち着きだした最中でしたので、黒田は見違えるように華やかになりはじめた街を眺めながら出勤したことでしょう。
朝は道路を往来する鉄道馬車に揺られながら、通りの向こうに人力車に乗った紳士などを見ていたかもしれませんね。
また夜にはガス灯の明かりに照らされながら、人々がにぎわう中で帰路についたかもしれません。
批判
西洋絵画を現地で学び、揚々と日本へ戻った黒田でしたが、その評価は思いの外悪いものでした。
当時の日本画壇には、彼の描く裸体を許容できるほど美術的精神が成熟していなかったからです。
フランスで入賞した『朝妝』は、日本の展覧会で大きな論争を呼び、また33歳の時に制作した裸婦像は下半身を布で隠される始末です。
黒田 清輝の美術論
黒田 清輝はヨーロッパで写実的な絵画を学び、さらにそこへ印象派の要素を加えることで外光派へと昇華させました。
すなわち、風景に自身の精神性を混ぜることで印象派と写実主義の折衷と成したのです。
裸婦画もまた自身が感じた感覚や精神を表現したものであり、決して単なるスケッチではないと言っています。
黒田はこのメソッドを“構想画”とも呼びました。
鑑賞
あらためて作品を見てみましょう。
黒田 清輝作『読書』です。
やわらかな日差しを受けながら一人の女性が読書をしています。
その表情は非常にやわらかで、日差しの温もりも相まって穏やかなひと時を感じさせますね。
これは留学中に描かれた作品ですのでモデルはおそらくフランス人でしょう。
作品からは制作中の黒田の安らかな心も伝わってきますね。
この作品は東京国立博物館に収蔵されています。(外部リンクに接続します。)
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