印象派とは 前編 -価値観の変遷と第1回印象派展-
目次
概要
印象主義とは19世紀後半から、フランスを中心にヨーロッパ各地に広がった絵画の流行です。
草分けとなったのは、当時主流であったアカデミック絵画に疑問を感じた若い芸術家たちでした。
彼らは世間からの非難を浴びながらも“第1回印象派展”を敢行し、続く印象派展の中で自らの芸術を追求します。
やがてグループ内で確執がおきつつも次第に販路は拡大し、新大陸アメリカでのブームを皮切りに評価は安定し始めました。
後世では、彼らに続いて新しい表現方法を模索する若手芸術家たちも出てきたことから、印象派運動が芸術界に及ぼした影響は非常に大きいものがあると言えます。
歴史
背景
フランスをではルネサンスの流行以降、古典主義にもとずいたアカデミズムが美術の根幹を成すようになりました。
その影響は商業的なブームにとどまらず、美術教育そのものにまで及んだそうです。
ルネサンス以降の様式はバロック→ロココと変遷しつつも本質は変わらず、人々は理想化された人体表現や神話に基づいたテーマを求め続けました。
流行は実に300年も続きましたが、18~19世紀ごろにミレーらが写実的な表現を模索し始めた頃に変化は現れ始めます。
19世紀半ばにコローたちがバルビゾン派を生むと、一部の画家が本格的に古典主義を脱却する試みを始めました。
フランスの変化
印象派誕生の直前、フランスはナポレオン三世による第2帝政が始まっていました。
のちに普仏戦争の勃発やパリコミューンの形成があったりと、この頃のフランスは激動の中を突き進みます。
文化もまたこの動乱の中で変化し始めており、絵画界では伝統に一石を投じんとする若手芸術家や新興貴族たちが現れていました。
絵画界のはぐれものたち
第2帝政が始まって10年が経過したころ、若手の画家クロード=モネは旧態依然とした美術的価値観に疑問を感じ始めていました。
モネはルノワールやシスレーらとともに、自身のインスピレーションのままにキャンバスを彩る試みを模索します。
そして写生に訪れたバルビゾン村で得たコロ-やルソーなどの作風に、新開発された顔料や自身の感性をミックスするアイデアを思いつきました。
これがのちの印象派につながります。
しかしこの試みは画壇にことごとく否定されました。
モネ達の作品はサロンに出品されるもそのほとんどが落選し、次第に彼らは他人の批評を受けない独自の展覧会を構想し始めます。
第1回印象派展
サロンでの落選を続ける若手芸術家を憂いたナポレオン三世は、これらの作品を集めた“落選展”を催しました。
ほとんどの観客は彼らの作品を嘲笑するために訪れましたが、一部の観客は関心を示し始めていたそうです。
しかしながらこの展覧会も続く開催は期待できず、とうとうモネ達は自分たちでお金を出し合い展覧会を開くことを決意します。
誰の評価も受けない、どの作品も落選しない彼らのための舞台です。
当然世間からは見世物扱いされ、開催のために立ち上げた会社も程なく資金難で倒産しましたが、モネ達に悔いはなかったでしょう。
なお、この時にモネが出品した作品名にちなんでこの展覧会は“印象派展”と名が付きました。
作品例
“古典主義を脱却する試み” -コロー作『モルトフォンテーヌの思い出』を鑑賞する-
“新たな時代の創造” 前編 クロード・モネ作『印象 -日の出-』を鑑賞する
“伝統と革新の狭間で” 前編 ルノワール作『桟敷席』を鑑賞する
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